今日の個所では、サムソンは、デリラという女性を好きになり、その結果、デリラに騙されて自分の秘密を明かすことになり、とうとう、ペリシテ人の敵の手に売り渡されてしまいました。サムソンは、両眼をくり抜かれ、青銅の足かせをはめられ、牢に入れられて労働させられることになりました。そして、ダゴンの神(体が魚で頭と手が人間の形をした、農業の神)の祭の日に、余興のひとつとして、サムソンは見世物として皆の前に引き出されました。そこで、サムソンは、人生最後の願いを主に捧げました。そして、自分を犠牲にして、ダゴンの神殿を支える柱を、祈りつつ、力を込めて倒し、その宮を崩壊させました。それが可能であったことは、ダゴンの神の宮の構造に関する考古学の発掘調査で確かめられています。
昨日、聖霊の賜物は、賜物を与えられた人の品性を変えることはないようであると、記しました。その点について本当にそうなのかどうか質問されました。この点については、今日の個所からも明らかであると思われます。ナジル人であり、主の霊が激しく下ったサムソンですが、デリラという女性を好きになり、完全に騙されています。サムソンの内なる人は変えられていないことを示しているように思えます。それでも、サムソンの人生は、主の御手の中にありました。サムソンは20年間、イスラエルの士師として、イスラエルをおさめたのです。不思議にも、「サムソンは20年間、イスラエルをさばいた」ということが、15章20節、16章31節の2回にわたって記されています。サムソンは、主のご計画の一部を担ったことが確かな事実であることを示しているようです。サムソンはサムソンなりに、主に人生を捧げた人でした。サムソンの強さと弱さを知りつつ、主はサムソンをイスラエルの裁きつかさに任命され、20年間、イスラエルを治めさせたのです。客観的に考えてみると、確かに、サムソンは、イスラエルの民のために力を尽くして仕えた人でした。そのところを、主は御覧になっていたのかな、と思われます。
話は変わりますが、力の賜物が、必ずしも、教会の益にならない場合があります。コリントの教会の人たちの中で、異言や預言の賜物を与えられた人たちが、教会を少なからず混乱させていたことが記されています。彼らは賜物をもっているゆえに、高ぶっていました。現代の教会でも、私の記憶では、癒しの賜物を与えられている人たちの7割か8割の人たちが、正しい信仰から離れていくという調査結果をみたことがあります。癒しでも、預言でも、奇蹟でも、知識でも、伝道でも、賜物を与えられている人は、兄弟姉妹から特別な尊敬をもって見られる傾向があり、自分たちの信仰の方が上であると錯覚してしまう傾向が非常に高いということです。そして、自分を中心にした働きへと進んでしまうのです。つまり、賜物は、その人の品性を変えることはないということです。その結果、他の人を軽く見たり、党派心をもち、分裂に進む傾向があるのです。
大事なことは、内なる人において聖霊様の実を結ぶこと、ますます、主を恐れる心をいただくことです。聖霊様に満たされることです。サムソンの例は、ある意味、反面教師のような役割を果たしていると思われます。ナジル人であることも、激しい主の霊の注ぎを受けたことも、サムソンを変えることは出来ませんでした。私たちも、第1の関心が、賜物や力や奇蹟を求めるものであれば、大きな危険が伴うことを知る必要があります。あるいは、知識や名声や成功を求める場合も同じです。その根底には、自分中心のプライド、他人の評価を求めることが動機となっている場合が少なくないからです。まず、求めるべきことは、キリストにより、霊において新しく生まれること、内側の変革が第1です。内なる霊が、主の御霊によって、主の栄光の姿に変えられることを求めることが、第1です。その次に、賜物です。そうすれば、主の栄光を表すものとして正しく賜物を用いることが出来ます。きょう、御父を愛する、主イエス様の燃えるような愛を増し加えて下さい。わたしの人生を、主を愛する人生として下さい。
清宣教師