サムエルは、年老いた時に、息子たちをイスラエルの裁きつかさに任命しましたが、息子たちは父の道に歩まなかったため、民の長老たちから拒絶されました。ある意味、子育てについて、サムエルは良いお手本がなかったようです。祭司エリの子育ては見ておりましたが、それは悪い手本でした。そして、残念ながら、サムエル自身は子供たちの性格や行状について把握していなかったようです。また、主の指示をもとめていたら、あるいは、状況が変わっていたかもしれません。どのように卓越した霊的指導者でも、遺伝子によっては霊的資質を伝えることが出来ないこと、それは幼少期からの教育による以外にないことが示唆されています。そして、これが契機となって長老たちは、他の国々と同じように、イスラエルにも王を立てて欲しいと要求しました。本来、イスラエルに王がいなかったのは、主ご自身が、イスラエルを治める王であったからです。しかし、イスラエルの長老や民たちは、周りの国々のようになりたいと要求しました。結局、彼らはサムエルを退けたのではなく、主ご自身を退けたのです(1節~7節)。それでも、主なる神は、サムエルを通して、長老や民たちにねんごろにかたりました。王を立てることにより、民たちが圧迫される結果になることは、目に見えているのですが、彼らは、夢見るもののように、聞く耳をもたなくなっていました。主のねんごろな語りかけに対して、聞く耳をもたない民となっていたのです(7節~18節)。最終的に、主は民たちの要求通りにされました。彼らは、自分たちの蒔いた種を刈り取ることになります(19節~22節)。
私たちも、主のねんごろな語りかけに対して、あまりにも、自我が強いと、もはや、主のみことばを聞く耳を持たなくなります。周りを見て、周りと同じようにすれば、うまくいくと考えてしまうのです。私たちが強情にしていると、主なる神様は、私たちに物事を委ねられます。こうなったら、自分で刈取りをする以外になくなります。強情をはることなく、私たちは、やわらかい心で主のみことばに、耳を傾け、主のみこころに信頼したいと思います。主にゆだねるものになりたいです。それが、一番、安全です。とくに、人生の岐路において、まわりと同じようになりたいと願い、志望校の選択、伴侶者の選択、職業の選択、住まいの選択・・・において、私たちは強情を張ることがあります。しかし、その時こそ、主に委ねることが求められている時です。「主にお委ねします」との祈りが必要です。
清宣教師