1節~7節で、エリフは、あえて、前置きのことばを述べています。これはヨブへの配慮とエリフの慎重さからくるものと思われます。エリフは自分もヨブと同じように弱さを持つ人間であるから、、自分のことばが脅しに聞こえてもおびえる必要はないと述べています(7節)。8節~11節において、エリフは、ヨブの何が問題であるかを明らかにしています。それは、「自分が潔白なのに、神は自分を敵のように見なして攻めたてている」と言ったことです。つまり、32章2節で、エリフがすでに語ったように、「ヨブが神よりもむしろ自分自身を義とした」ことです。12節~14節において、エリフは、ただ、この点だけを問題にしているのであって、他のことを含めて全面的にヨブのことを否定しているのではないことを明らかにしています。そして、ヨブが神が答えてくれないといって神の側に非があるかのように訴えているけれども、実は神は、いろいろな方法で語られるおかたであり、ヨブが気が付かないだけなのかも知れないと指摘しています。15節~22節において、エリフは、具体的に神が語られる方法を紹介しています。15節~18節では、神は夢の中で人に語られる時があるといいます。19節~22節では、神は病気を通して語られる時があるといいます。23節~28節において、エリフは、代言者(23節)について述べています。この代言者は御使いであり(23節)、千人に1人の代言者といわれるほどに、特別な存在であることを示しています。神は一方的に語る方ではなく、ご自身と人との間に立つ、代言者をおいてくださると述べています。この代言者は人の正しさを執り成して下さるお方です(23節)。だから、ヨブが高ぶることなく、主の前にへりくだるなら、神は代言者を備えて正しい関係を回復して下さるに違いないと指摘しています。そうすれば、肉体的にも回復され(25節)、神との交わりにおいても回復され(26節)、その結果、人々に自分の救いの証しをするようになる(27節、28節)と指摘しています。29節~33節において、エリフは、神が夢や苦しみを通して語られるのも、その人の魂をよみから引き戻し、いのちの光で照らすためであると(30節)説明しています。そして、ヨブに対して、もし言いたいことがあれば、ぜひ、言ってほしいと促しています(31節~33節)。
今日の聖書箇所から教えられることは、エリフは、ヨブの3人の友人たちとは違い、ヨブを全面的に罪ありとして断罪するのではなく、ヨブのことを理解したうえで発言したことです。しかも、ヨブにも言い分があれば言って欲しいと促しています。つまり、自分の意見が絶対に正しいとするのではなく、ヨブの意見を聞く用意があるとしています。きょう、私たちも自己中心ではなく、柔軟性をもって、相手の人の意見に耳を傾けることが出来ますように。
清宣教師