きょうの詩篇は、エルサレムの神殿に巡礼者が到着したときの喜びの歌です。初めの雨(6節)とあるので、秋の種まきの頃であることが分ります。その頃、全国から神殿に集まるのは仮庵の祭りです。この詩篇の作者は、遠くから、エルサレムのシオンの丘にある神殿を目指して旅をして、ようやく、神殿の門をくぐったのでしょう。「万軍の主、あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。」(1,2節)。「なんと慕わしいことでしょう。」これを別の訳では、「なんと居心地のよいことでしょう。」と訳しています。涙の谷(6節)とは、乾いた谷とも訳されます。そこから水が得られにくいところを意味しています。しかし、シオンの神殿を目指している人、心の中に描いている人には、その乾いたところすら、泉の湧くところとします。この詩篇84篇では、3回、「なんと幸いなことでしょう」ということばが繰り返されています。4節、5節、12節です。最初の4節は、「直接、神殿で奉仕している祭司たちやレビ人たち」のことでしょう。5節は、直接神殿で奉仕しているのではなく、「神殿を目指して、神殿のことを心に描いている巡礼者たち」のことでしょう。12節は、直接、神殿で奉仕しているわけでもなく、巡礼中の人でもなく、もっと広い意味で、「主に信頼する人たち」のことを指しています。いずれにせよ、みな同じように幸いを受ける(神に祝福される)人たちです。「その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎる時も、そこを泉の湧くところとします。初めの雨も、またそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。」(5節―7節)。
今日の聖書箇所から教えられることは、昔も今も、神を愛する者の願い、飢え渇きは同じであることです。心の内なる感動をもって、ぐんぐん惹きつけられました。今日も、家事をしながら、子育てしながら、働きながら、学びながら、休みながら、それぞれ、主が置いて下さった、その場所で、主の臨在によって包まれて、元気に過ごされますように、お祈りいたします。
清宣教師