さて、詩篇102篇に入りました。この詩篇は7つの悔い改めの詩篇(6,32,38,51,102,130,143篇)のひとつです。国民全体の苦しみを自分の苦しみとして表現しているようです。ですから、バビロン捕囚の時代の終わりころの詩篇と考えられています。シオンは荒廃し、民は捕囚の状態にありますが、主の約束による回復の時は近いと信じて、詩人は祈りつつ、詩を書きとめました。1節‐11節では、苦しみの中での叫びが、主の前に届くように願っています。自分を荒野のペリカン、廃墟のフクロウ、屋根の上の一人ぼっちの鳥、いずれも、寂しい場所に住む鳥たちですが、そのように自分もまた、孤独の中にあって嘆き、助ける者もなく、敵の嘲りの中で生きているのです。それはもとはといえば、イスラエルの民の罪の故であり、主の憤りと怒りの結果として、捕囚という神の裁きの中に置かれているのです。そして、伸びていく日陰のように、日没になれば消えてしまう、そのような運命の中にあるような不安と恐れの中に投げ込まれているように思われるのです。12節―22節では、最初の12節の「しかし」ということばで、現実の孤独と苦しみの中にある悔い改めの祈りが、主に向かう信仰を呼び覚ましています。そして、主の真実と憐みを覚えて、信仰に立つ姿勢を取り戻しています。定めの時が来て、主が立ち上がり、解放の時が来るという希望に導かれています。「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。」(17節)と、信仰の告白をしています。捕囚から解放される民は、新しく造られた民ということができます(18節)。あたかも、過去の出エジプトの時のように、古い不信仰の世代は絶え果てて、新しい世代の民たちが約束の地に入ったように、今回もバビロン捕囚から解放された民は、主にあって新しく造られた民として主を賛美し、主こそ解放者であることを賛美し、証するのです。そして、シオンは世界の礼拝の中心となるのです(22節)。23節―28節では、もう一度、詩人は、現実の不安の中に戻されます。私の生きているうちに、バビロン捕囚からの解放を、自分の目で見たいという願いです。しかし、「たといこの天と地が亡びても、創造主は永遠に存在されるお方です。このお方は真実をもって約束されたことは必ず果たされます。たとい、私の生きているうちに、その約束を見ることが出来なくとも、かならず、次の世代において、イスラエルの子孫たちはバビロン捕囚から解放されます、そして約束の地に帰り、そこに住みつく時が必ず来ます」という確信に満たされて、この詩を閉じています(28節)。
今日の聖書箇所から教えられることは、私たちも、不安や恐れが湧いてくる時があります。しかし、その中で、静かに落ち着いて考え、主に心をむけるとき、主のみこころが見えてくるようになります。そして、悔い改めへと導かれます。この静かな透明な心こそ、主が待たれているものです。そして、私たちは、心の中に、主からのみことばをいただきます。主を見上げる信仰が与えられます。そして、平安をもって、主の約束を信じて、主にお委ねする境地へとみちびかれます。
清宣教師