雅歌を振り返ってみますと1章は愛する二人の出会い、2章は婚約、3章前半は結婚1週間くらい前、そして3章6節以降は結婚当日、4章は結婚初夜、5章は新婚早々、夫の帰宅が遅く、夫婦げんか、そして、6章に入りました。
合唱隊(1節):いままでは、無関心を装っていたエルサレムの女たちが、新妻に同情して、一緒に探しましょう、と言ってくれた。
新妻(2節―3節):それを聞いて、いままで、いきり立っていた新妻も、落ち着いて、私の夫は、自分の庭に行きました、という。5章1節の「私の庭」とは花婿が喜び楽しむ花嫁のことだったが、この6章2節では、夫の関心は仕事にあり、自分の庭とは、夫の仕事場である。前の章での、夫婦げんか、お互いに譲らないプライドのぶつかり、夫は仕事に没頭しようとしている。
夫(4節―10節):4節以降は、家へ帰らないで仕事に没頭しようとするが、妻の姿が目の前にちらついてしょうがない、夫の姿である。夫は新妻の姿をたたえる新妻は、美しく、愛らしい存在であるが、軍勢のように恐ろしい(頼りになる)存在でもある。(厳密には、10節は王妃やそばめたちの賞賛)。
新妻(11節―12節):新妻はくるみの木の庭へ下って行き、捜し歩く、しかし、自分で知らないうちに、いつのまにか王の車に乗っていた。
王妃とそばめたち(13節):王宮に残っている王妃やそばめたちが、帰れ、帰れ、と叫んでいる。シュラムの女とは、新妻のことである。13節後半の「どうしてあなたがたがシュラムの女を見るのです。二つの陣営の舞のように。」は、夫のことばか、新妻のことばか、どちらか判定しがたい。内容的には、どうして、何か不思議なことを見るかのように見るのですか。そんなふうに見ないでください。という意味になる。思わぬ夫婦げんかの発展に、そっとしてほしいという願いのようである。
今日の聖書箇所から教えられることは、新妻も夫も、お互いに相手の良い所を認めているのですが、お互いに解決できない微妙で複雑な夫婦の関係です。そこに主なる神様との個人的な関係が確立していないと、小さな穴が、ダムの決壊をもたらすことがあるように、決定的な離婚となることもあるのです。お互いが神様との関係を、第1にすることが結婚生活にとっても不可欠です。
清宣教師