エレミヤの人生は、悲しみの人生であり、涙の預言者と呼ばれる人でした。それこそが、まさに、主イエス様の生き方を身をもって証しした預言者でした。主のみことばを宣べ伝えたにもかかわらず、決して報われることない人生でした。現代の歴史家は、決して、このような人物を評価しないと思います。何も業績と言えるものを残していないのです。それにもかかわらず、主なる神は、旧約聖書の中心に、この分量的にも最大のスペースを与えて、エレミヤ書を残されたのです。このことは、現代に生きる私たちに対して、大きなインパクトを与えています。
さて、1章ですが、エレミヤの召命について記されています。悪王マナセ王が死去して、善王ヨシアが即位してから13年目の頃、エレミヤは、若くして(20歳前後か?)召命を受けました。この頃がエレミヤにとって最良の時であったと思われます。しかし、善王ヨシアが戦死して、エホヤキム、ゼデキヤの時代、バビロン捕囚のときまで、預言者として主に仕えるのでした(1節―3節)。まだ若いと、しり込みするエレミヤに対して、神は『まだ若い、と言うな』と言われて、エレミヤに対する約束を与えました。そして、主は御手を伸ばし、エレミヤの口に触れて、主のことばを授けられました。そのあと、幻(11節―19節)を通して、主の見張り人としての使命が与えられました。「彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、―主の御つげーあなたを救い出すからだ。」(19節)と約束されました。この約束だけをみると、一見、敵に勝利するイメージですが、実際には、敵対する者によって何度も何度も打倒されるけれども立ち上がらなければならないというとてもつらい使命でした。さあ、エレミヤ書が始まりました。私たちの人生観を一変させる書です。
清宣教師