ナイルの川の水(エジプトの力)に頼ったり、ユーフラテス川の水(アッシリアやバビロンの力)に頼ったり、いったい、どうしたことか(18節)。あなたの背信の罪がこれらのことをもたらしているのだ。生ける神への恐れを捨てることは大きな罪である。20~28節(偶像を慕い続けるイスラエル):自分のくびきを砕き、自由の身になったのにもかかわらず、すべての高い丘やすべての青々とした木の下で、淫行(バアル礼拝)を行っている。しかも、バアル礼拝の中で、異性との淫行を行っている。わたしはあなたがたを良いものとして植えたのに、悪い実しか生じないものとなってしまった。それにもかかわらず、「私はけがれていない。バアルたちには従わなかった」と主張している。発情期の動物のように異国の男たち(偶像)を慕っている。木に向かって、石にむかって、「あなたは父だ。あなたは私を生んだ」などと言って礼拝している(27節)。あなたの神々は、町の数ほどいる。29~37節(不誠実なイスラエル):あなたがたを打ったが無駄だった。「打つ」とは「試練」のことである。試練を通して方向を転換するように促したが無駄だった。預言者たちを遣わして語ったが無駄だった。この民がわたしを忘れた日数は数えきれない。だから、あなたはアッシリアの勢力によって支配され、エジプトの勢力によって支配される。それが主を退けたものへの私の裁きである。
今日の聖書箇所から教えられることは、主なる神の誠実さと民たちの不誠実の対比です。エレミヤ書全体のテーマは、31章3節に記されているように、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」です。主は契約の民に誠実を尽くしました。イエス様もクリスチャンのすべての罪を、死をもって贖って下さいました。それなのに、もし私たちが、不品行、快楽、不従順、自己中心の生き方を続けるなら、それは不誠実であり、偽善であり、偶像礼拝の罪です。神は侮られるお方ではありません。そのような恐るべき罪の習慣を断ち切りましょう。主は生きておられます。主は罪の習慣から私たちを救い出してくださいます。
清宣教師