1節の第30年とは、明確には分りませんが、一般にはエゼキエルが30歳の時を表していると解釈しています。3節には、「主」の御手があったと記されています。また、「ハッキリと」ということが強調されています。この意味は何でしょうか? 当時、バビロンに捕囚となった民たちは、神に見放された者たちとの認識が一般的でした。しかし、ここで、主は捕囚の民たちを捨てられたのではなく、このバビロンの地において、主のみことばがハッキリと語られたという事実を強調しています。そして、4節以降、このバビロンの地において、明確に、主の臨在があったことを記しています。それは信じられない驚くべき事実でした。主は、エルサレムではなく、この異教の地において、臨在されておられるのです。
4節―28節の中に登場する「4つの生き物」に関する描写で、注意すべき点があります。それは、「・・・のようなもの」「・・・のように」「・・・のようであり」という表現です。つまり、○○であるとは言っていないことです。あくまでも、「・・・のよう」という表現であり、エゼキエルには、最も適切なことばで表現することは難しかったのです。例えば、4節では、「青銅の輝きのようなもの」であり、決して、青銅の輝きではありませんでした。これは、この章の全体の表現についていえることです。エゼキエルが見たのは、天の光景であり、地上のことばで描写することは困難を極めたのです。また、4つの生き物(ケルビム天使たち)について、詳しく描写されていますが、大事なことは、そのあとに描写されていること(26節―28節)です。これらの4つの生き物たちを台座として、その遥か上に、主の御座があったことです。4つの生き物の4つの顔について、ユダヤ人の学者は、次のように解釈しています。「人間」はすべての生き物を治める者、「獅子」はすべての野の獣を治めるもの、「牛」はすべての家畜をおさめるもの」、「鷲」はすべての鳥たちをおさめるもの、ということで、それら自然界のすべてのものを治めるものたちを台座として、そのはるか上におられる主の姿を描いていると言われています。輪(18節―21節)は神の霊であり、つねに、一緒にあることを描いています。ケルビム天使たちは、つねに、主の霊の導きのまま従っていることを描写しています。私たちも、主の御霊によって歩みなさいと勧められています。肉を満足させるのではなく、御霊によって満たされて歩くことです。以上です。主の御名を賛美します。清宣教師