ですから、主は、収穫の時が来ても何も収穫できず、祭りの喜びはすべて取り上げるというのです。13節の「バアル」ということばは、複数形になっています。日本語に直訳すれば「バアルたち」ということです。カナンのバアル、バアル・ベリテ、バアル・ゼブブ、カルメルのバアルなど、それぞれの地方の聖所で、それぞれのバアルの神々が祭られていました。14節の「アコルの谷」は、かつて、イスラエルが最初にカナンの地に入った時、アカンとその一族が罪を犯して処刑された場所です。「アコル」とは、苦痛や災いを意味する言葉でした。しかし、今回は、「望みの門」という意味に代えられるのです。初心に立ち返り、イスラエルの民が、アカンの門を災いではなく、望みの門として再出発する時が来るのです。
16節―23節は、16節、18節、21節と、冒頭のことばが「その日」と記されています。「その日」とは主の刑罰が完了して、神の救いが現われる日です。イスラエルの民は、主なる神を夫と呼び、もはやバアルを、私のバアルとは呼ぶことはないのです。主は、花嫁料を払って、イスラエルの民をご自分の妻とされます。その花嫁料は、5つの名詞で示されています。19節と20節の「正義」、「公義」、「恵み」、「あわれみ」、「真実」の5つです。21節―23節は、イスラエルの新たな愛の応答に対して、主が祝福をもって応えられることを示しています。22節のイズレエルは、「地に撒き散らし」という新しい意味づけです。つまり、主はイスラエルの子孫を再び約束の地にタネとして撒き散らし、神の民としての繁栄をあたえるという意味です。そこで、『愛されない者』が愛される者となり、「私の民ではない者」がわたしの民と呼ばれるようになるのです。そして、イスラエルは主なる神を「あなたは私の神」と告白するようになるのです。後半は、イスラエルの回復です。それは主の一方的な恵みによるものです。「その日」とは、イスラエルの回復の日ですが、私たちにとっては、あのイエス様の十字架と復活の日を指しているように思われます。一方的な恵みにより、十字架において私たちのすべての背信の罪を取り除き、復活において新しいいのちと、キリストの義の衣を着せて下さった日のことです。主よ、感謝します。大きな恵みと愛をほめたたえます。主は私たちのまことの神です。
清宣教師