そこで、再び、イエス様は、ご自分が異邦人に引き渡され、辱められ、ムチ打たれて殺されること、しかし3日目によみがえることを弟子たちに話しました。これまでルカの福音書の中だけでも、ご自分の死と復活を暗示的に示された箇所を含めると、今回で7度目になります。それでも、弟子たちには、「何一つわからなかった、理解できなかった」と記されています。弟子たちは、自分たちの願いにあうことだけを受け入れ、願いに合わないことは、無意識に排除していたようです。それで何度、このような話を聞いても、心が受け付けず、最後まで真の備えをすることが出来なかったようです。
一方、エリコの町に近づいたとき、目の不自由な人が物乞いをしていました。弟子たちは目が見えたのですが、ある意味、イエス様の死と復活については、目をつぶっているというか、盲目でした。この盲目の人は、イエス様に向かって「ダビデの子よ」と叫び、旧約聖書に予言されていたメシヤである、と信じていました。そして、イエス様から何をして欲しいかと問われると、「目が見えるようになることです」と答えて、イエス様によって目が見えるように癒していただきました。やはり、弟子たちもイエス様によって目が見えるようになることを願い求めるべきだったのでしょう。世の終わりの時代の教会を代表するともいわれるラオデキヤの教会(黙示録3章14節~32節)に対して、イエス様が語られています。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」。いま、イエス様に、私たちの目が見えるようになることを求めたいと思います。
主の御霊は、私たちのうちに豊かな御霊の実を結ばせてくださいます!