いつも祈るべきことを弟子たちに教えるために、イエス様がひとつのたとえ話をしてくださいました。ある町に人を人とも思わない不正な裁判官がいました。そこに、ひとりのやもめ女がやってきて、裁判で自分を守ってほしいと訴えました。お金持ちでもない、やもめ女なのでしばらく相手にせず、放っておきました。しかし、このやもめ女は裁判官のところに、ひっきりなしに来て訴えるので、裁判官はうるさくてしょうがないので、その願いを聞き入れて裁判してやることにしました。このように、不正な裁判官でもなんども訴えるなら聞き入れるのに、どうして夜昼、神を求める選民のために神が放っておかれるでしょうか、すみやかに裁きを下してくださいます、と解き明かされました。
それから自分を義人だとして他の人を見下している者たちに対して、別の例えを話されました。ひとりはパリサイ人で宮に上り、心の中で自分を義とする祈りを捧げました。もうひとりは取税人で、宮から遠く離れて立ち、自分の胸をたたき、心の中で、こんな罪人を赦してください、と祈りました。そしてイエス様は、神の前に義と認められたのは、パリサイ人ではなく、取税人であると言われました。その理由は、だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるからです、と解き明かされました。
さて、人々が幼子たちを祝福してもらおうと、イエス様のもとに連れてきました。ところが弟子たちは、それを見て、子供たちのところの来るところじゃない、としかりつけました。しかし、イエス様は、こどもたちを呼び寄せて、神の国は、このような幼子たちのためにあるのだと、解き明かされました。こうして、神の国には、取税人や幼子たちのように自分を低くする者たちはいるけれども、偉ぶったり、高ぶったりする人たちは誰もいないことを示してくださいました。ところで、当時、一般的には偉い人やお金持ちの人が、天国にいるのだと考えられていましたが、イエス様は、そんな誤解を解消されました。ある役人とイエス様との会話の中でも、それが明らかにされていきます。その役人は立派な人でお金持ちでした。当然、このような人こそ、天国に入る資格があると考えられていました。ところが、イエス様は、「裕福なものが神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう」と言われました。しかし、同時に、「人にはできないことが神にはできるのです」と補足されました。つまり、天国は、立派なことをしたから入れる資格があるとか、お金持ちだから入る資格があるということではないのです。むしろ、ペテロをはじめ、12弟子たちのように、神の国のために献身して、自分を捨て、家や家族を捨てたものこそ、この世においても、神の国においても必ず報いを受けることになるのです。(次ページへ続く)