11章の冒頭で、パウロは、この徹底して不従順なイスラエルの民に対して、神は退けたのだろうか、いや絶対にそんなことはない。と述べています。そして、旧約聖書の中で、エリヤの時代、イスラエルの民たちはバアルやアシュタロテの偶像礼拝に染まっており、エリヤは絶望の叫びで神に訴えました。「私だけが残されました」。ところが、主は「男子7000人をわたしのために残してある」と言われました。つまり、エリヤには気づかなかったのですが、まことの神を礼拝する者、残りの民を隠されていたのです。そして、これは完全に主の恵みによるものでした。さて、イスラエルの民の不従順は、メシアを殺すことによって頂点に達しました。もはや、救いはないのでしょうか。もちろん、メシアを殺した不従順の行為は、どんな行いによっても救いはありません。しかし、恵みによるなら救いがあります。イスラエルの民が、どんなに不信仰の民、不従順の民であっても、主の恵みは、決して、イスラエルを見捨てることはないのです。そうして、さらに、逆説的に、話を進めます。イスラエルの不従順、不信仰が、かえって異邦人の救いをもたらす結果となったのだから、今度は、異邦人の救いによって、イスラエルが救われる番であるというのです。かつて、異邦人は不従順で不信仰でしたが、イスラエルの不従順、不信仰により、福音の恵みにあずかることが出来ました。今度は、イスラエルの不従順、不信仰により、イスラエルの民が福音の恵みにあずかる番であるというのです。16節から初物と収穫された粉の全体の関係、あるいは、根と枝の関係から、話を展開します。初物とか根は「イスラエルの族長たち」のこと、収穫された粉の全体、枝とは、「イスラエルの民全体」のことを指しています。族長たちの信仰により、民全体が神にささげられた者となりました。初物が聖ければ全体に及びます。根が聖ければ枝に及びます。そこから、イスラエルと異邦人のことに言及します。栽培種のオリーブの台木とは「イスラエル」のこと、野生種の接ぎ穂とは[異邦人]のことです。台木のイスラエルの民の信仰に、異邦人の信仰が接ぎ木されたのであるから、異邦人は誇ってはならないと諭します。しかし、異邦人の人たちは「栽培種のオリーブの枝が折られたのは、私が継ぎ合わされるためだ」(19節)というかもしれないが、だからといって誇ってはならない。なぜ、もともとの栽培種の枝が折られたのかというと、イスラエルの民の高慢のためであった。だから、もし、野生種の接ぎ穂である異邦人が高ぶれば、簡単に折られてしまうのだと警告します。つまり、ここには、「神のいつくしみときびしさ」がある(22節)。しっかり、そのことを見なさいというのです。神の恵みによって救われたと自覚して、神の慈しみの中に留まっているなら救われるのです。しかし、誇り高ぶるなら異邦人も切り落とされるのです。そして、結論として、イスラエルの民も、異邦人もみな、メシヤを信じる信仰によって救われる時が来るというのです。すべてのものが不従順になっているのは、すべてのものが救われるためである。この逆説的な神の御計画は、人間の知恵をはるかに超えているのです(33節、34節)。明日の12章からは、信仰生活の実践の部分に入ります。
主はあらゆる方法で、私たちに語り、私たちを導かれるお方です!