4章1節で、パウロは、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」と、聖徒たちの歩みのありかたについて勧めをしましたが、今日の5章1節では、「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。」と述べています。「愛のうちに歩むこと」こそ、聖徒たちにふさわしい歩みです。そのためにはまず、私たち自身が「愛されていること」を体験する必要があります。「愛されている」という自覚から愛のうちに歩むことが実現していきます。ヨハネの福音書3章16節で「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された」と宣言しています。神は愛のおかたです。そして、ひとり子イエス様をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。「神にならう」とは、「愛のうちに歩むこと」です。御子イエスさまは、父なる神様を愛するがゆえに、私たちを愛し、ご自分を供え物として捧げられました(2節)。1941年の夏、アウシュヴィッツの強制収容所で、ある日、脱走者があり、その報復として10人の囚人が餓死刑室に送られることになりました。そのうちの一人が半狂乱で「助けてくれ」と叫びました。そのとき、コルベ神父がその男の身代わりを申し出て、その男は助かり、コルベ神父は餓死刑室でいのちを終えました。コルベ神父は「愛がないところには愛をつくり出さなければならない」ということばを実践したのです。「神にならう者」、「愛のうちに歩む」という、ひとつの偉大な実例ですが、私たちは日常の歩みのなかで、実践することが求められています。また、「神にならう者」とは、「光の子として歩むこと」(8節)です。キリストがこの世の光であるように、私たちも「世界の光」として歩むことです(マタイの福音書、5章14節)。「光の子としての歩み」の反対は、「汚れ、むさぼり、みだらなこと、愚かな話、下品な冗談」(3節~7節)であり、彼らは偶像礼拝者であり、暗闇の世界に属する者たちです(5、8、11節)。暗闇の世界に属する者たちに対して、「眠っている人よ。目を覚ませ・・・」(14節)と勧めています。「賢い人のように生きる」(15節)とは、「神にならって生きること」であり、キリストの福音にふさわしく生活することです。主イエス様が受肉された目的は、御父のみこころを行うことでした(ヨハネの福音書、4章34節)。そして、その通りに実践されました(ヨハネの福音書17章4節)。私たちが召されたのも、神の栄光を表すためです。その実現のための秘訣は、18節に記されています。「御霊に満たされなさい。」です。22節~33節では、夫と妻の関係について、キリストと教会の関係から、その重要な奥義を解き明かしています。夫と妻の結婚の中に秘められた奥義とは、キリストと教会の関係を表すという奥義です。夫はキリストが教会のために、ご自分のいのちを捧げられたように、いのちを捧げるほどの真のアガペーの愛(神の愛)で妻を愛することが求められています。一方、妻は、教会がイエス・キリストの真のアガペーの愛に応えたように、真心から従うことが求められています。
神はみこころに従い、からだの中にそれぞれの器官を備えて下さいました!