サムエルは、年老いた時に、息子たちをイスラエルの裁きつかさに任命しましたが、息子たちは父の道に歩まなかったため、民の長老たちから拒絶されました。そして、これが契機となって長老たちは、他の国々と同じように、イスラエルにも王を立てて欲しいと要求しました。本来、イスラエルに王がいなかったのは、主ご自身が、イスラエルを治める王であったからです。しかし、イスラエルの長老や民たちは、周りの国々のようになりたいと要求しました。結局、彼らはサムエルを退けたのではなく、主ご自身を退けたのです。それでも、主なる神は、サムエルを通して、長老や民たちにねんごろにかたりました。王を立てることにより、民たちが圧迫される結果になることは、目に見えているのですが、彼らは、夢見るもののように、聞く耳をもたなくなっていました。主のねんごろな語りかけに対して、聞く耳をもたない民となっていたのです。それで、最終的に、主は民たちの要求通りにされました。彼らは、自分たちの蒔いた種を刈り取ることになります。

私たちも、主のねんごろな語りかけに対して、あまりにも、自我が強いと、もはや、聞く耳を持たなくなります。周りを見て、周りと同じようにすれば、うまくいくと考えてしまうのです。私たちが強情にしていると、主なる神様は、私たちに物事を委ねられます。こうなったら、自分で刈取りをする以外になくなります。強情をはることなく、私たちは、やわらかい心で主のみことばに、耳を傾け、主のみこころに信頼したいと思います。主にゆだねるものになりたいです。それが、一番、安全です。

清宣教師