1節―7節:ヨナタンの執り成し。サウル王はまだ、息子ヨナタンの理路整然としたアドバイスに耳を傾け、心を向けることが出来ました。ヨナタンの執り成しは、聞き入れられて、サウル王はダビデを受け入れました。

8節―10節:槍の攻撃(2回目)。サウル王は、ダビデが勝利を得るとまた、嫉妬心が揺さぶられ、これが悪い霊に隙をあたえることになり、槍をもってダビデを突き刺し殺そうとしました。ある意味、心の中の戦いは、繰り返されるということです。創世記の4章で、主はカインに対して、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(創世記4章7節後半)と語りました。まさに、サウロは、この嫉妬心からくる殺意を治めるべきでしたが、そうはしませんでした。ダビデはただ、主の恵みによっていのちを助けられました。

11節―17節:窓からの逃亡。王女であり、ダビデの妻のミカルは、ダビデの身を案じて、すぐ、逃亡することを勧めて行動に移しました。ダビデは、この妻のアドバイスにより、九死に一生を得ました。

18節―24節:サムエルのところへ逃亡。ダビデはサムエルが住んでいた地に逃げました。そこで、サウルの仕打ちについてサムエルに報告し、さらに、これからの歩むべき道についてアドバイスをもらうためであると思われます。サウル王は、ダビデをとらえようとして、追っ手を差し向けますが、3度とも失敗します。最後には、サウルみずからサムエルのもとに向かいますが、これも失敗しました。サムエルは、武力は持っておりませんでしたが、サムエルもダビデも、不思議な方法で、主によって守られました。

ところで、きょうの19章18節は、ダビデの生涯の大きな転換点になっています。つまり、19章18節から31章13節までは、放浪者、あるいは、逃亡者としてのダビデの人生が描かれています。

サウルが、サムエルによって油注ぎを受けた時は、とても、臆病でしたが、好青年でした。しかし、王としての地位が確立するにつれて、自信をもつようになり、高慢になってしまいました。ドラマに登場する豊臣秀吉なども、典型的な例ですね。最初は、庶民的でしたが、太閤秀吉となると、もはや、暴君に化してしまいました。劣等感と優越感は同じ線上にあると言われます。この線上にあると、サウルのように、あるいは、秀吉のように、暴君と化してしまいます。この線上からの解放が、イエス様の十字架による救いです。新約聖書のサウルが最も良い例です。サウルは、解放されて、パウロになりました。パウロはあるがままの自分を受け入れて、自分は罪人のかしらであると宣言しました。そして、神の恵みにより使徒とされたという自覚をもって、使命を果たしました(ピリピ人への手紙、3章4節~14節参照)。

私たちが生きているのは、すべて、主の恵みによるものです。

ハレルヤ、主を賛美します。

清宣教師