1節―3節:ダビデが主の安息をいただいて、ふと、気になったことがありました。それは自分は見事な杉材の家(エルサレムでは、石細工の家が多く、杉材は高価なものでした)に住んでいるのに、神の箱は移動式の天幕に納められていることはおかしいのではないかという思いが与えられました。おそらく、その思いが心から離れなくなったのでしょう。それで、神の箱のために素晴らしい家を建てたいと願い、預言者ナタンにそのビジョンを話しました。ナタンは、「あなたの心にあることはみな行いなさい」と即答しました、

4節―17節:しかし、その夜、預言者ナタンに主のおことばがありました。ダビデに対する主の返答のことばでした。それは、ダビデが主のために家を建てるのではなく、主がダビデのために家を建てるという約束のことばでした。ダビデの家とは、ダビデ王朝のことです(13節参照)。預言者ナタンは、主はダビデ王朝をとこしえまで堅く立てるという約束を与えられたことをダビデに伝えました。

18節―29節:ダビデは、主の前に座し、感謝の祈りを捧げました。自分は受ける資格のないものであるにもかかわらず、主の恵みによって与えられた神の約束を驚きつつ、感謝し、賛美しました。そして、最後に、主のおことばの通り、しもべの家を祝福してくださいと祈りを捧げました。

今日の個所から、私たちに適用してみますと、私たちの心の中に良いビジョンが与えられた時は、牧師や信仰の先輩に相談してみるように勧められているように思います。つまり、自分のビジョンに対して、主が直接、語られることもありますが、相談相手を通して主のみこころが示されることが多いようです。それにしても、主のための良きビジョンは、そのビジョンを抱いただけでも、主の祝福を受けるものであることに驚きませんか。主の教会のために、主のお働きのために、良いビジョンを持つことは幸いです。たとえ、それが自分には実行できなくても、その思いが主にあって受け入れられ、主からの祝福として返ってくるのです。

清宣教師