いよいよ、ネヘミヤ記に入りました。個人的なことですが、私は、ある時期、クリスチャンネームとして、「ネヘミヤ・高橋」の名称を使っていたことがあります。ネヘミヤは、国家公務員の真摯なクリスチャンで、エルサレムの城壁を再建するリーダーという任務を担っていました。そこに憧れというか、尊敬の思いがあり、このような人物になりたいということで拝借しました。私の大好きな人物です。
1章1節は、ペルシャ王アルタシャスタの治世の第20年のキスレウの月とあります。西暦でいえば、紀元前445年の12月あるいは444年の1月に相当します。前の書で登場したエズラのエルサレム帰還、律法による宗教改革から12年あるいは13年後のことになります。
ネヘミヤはシュシャン(エラム州の首都であり、ペルシャ王の宮殿がありました)の城にいました(1節)。そこに親類のハナニがユダの地から来た人々を連れてきて、ネヘミヤに紹介しました。そこで、かねてからエルサレムのことを心配していたネヘミヤは、早速、現状の報告をうけました。捕囚から帰った者たちは非常な困難の中にあり、エルサレムの城壁も崩されたままであることを聞いて、ネヘミヤは、座って泣き、数日の間、断食して主に祈りました(4節)。
その祈りの内容が、5節から11節に記されています。それは、イスラエルの先祖たちと現在の民たちの罪の告白と、モーセが約束したみことばに拠る、執り成しの祈りでした。最後に、「この人の前に、あわれみを受けさせてください」(11節)と祈っていますが、この人とは、アルタシャスタ王のことです。王の許可がなければ、エルサレムの再建のために出向くことができないからです。この時、ネヘミヤは王の献酌官でした(11節)。
ネヘミヤは、「しもべ」ということばを8回も使っています。自分自身のためにも3回もちいています。ネヘミヤは、神の前には、ひとりのしもべであり、主の御計画を成し遂げるために、このシュシャンの城で、王に仕えているのだという確信があったようです。エレミヤは、自分の地位を自分自身で得たものとは考えず、自分の地位は神から与えられたものとして認識していました。ですから、「しもべ」としての行動、なにが、神のみこころであるかを知り、行動しようとしています。ネヘミヤの生き方の中に、「まず、神の国と神の義を求める」姿が浮き彫りにされています。
私たちも、いま、ここにいるのは、自分自身の働きによるのではなく、神の恵みのゆえに、神の御計画を成し遂げるために、ここに置かれているという認識が必要です。自分の価値を他人からの評価や地位などに置くなら、私たちは、容易にこの世の人になってしまいます。私たちの価値は、神の作品としての存在そのものにあります。「あなたは私の目には高価で尊い」ということです。自分自身の正しいアイデンティティを持つことにより、この世に属さずに生きることが可能となります。私たちは神の作品です。神のお働きのために備えられています。そして、備えられた場所で、神の栄光をあらわすことになります。
主よ。今日も天国の一日を感謝いたします。主のみこころがなりますように。
清宣教師