ヨブ記の2章では、天上の会議の光景がふたたび記されています。そこでは、主がサタンに「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。おまえは、なんの理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが」と言われて、ヨブのことを信頼していることを示しました。サタンは、これに対して、再び、主に口答えをしました。「自分のいのちが脅かされればヨブもきっと、あなたを呪うに違いありません」そこで、主は再び、サタンに、「では、彼をおまえの手に任せる」と言われました。それで、サタンはヨブの全身を腫物で打ちました。それで、ヨブの妻までもが、「神を呪って死になさい」といいました。それでも、ヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをもうけなければならない」と言って、罪を犯すようなことは口にしませんでした。
こうして、災いは、ヨブの財産が奪われることから始まって(1章15節、17節)、ヨブの家族のいのちが奪われ(1章19節)、そして、今回は、ヨブ自身のからだに災いが及びました(2章8節)。つまり、普段は、主がヨブの周りに3重の垣(バリア)で守っておられたということを意味します(1章10節参照)。その垣を、理由なく、破るには主の許可が必要でした。通常は、サタンの手に、その垣を破る権利が与えられるのは、そのひとが罪を犯した時です。罪を犯すと破れ目が生じるのです。しかし、今回は、ヨブ自身の罪による破れではなく、むしろ、逆に、サタンの挑戦に対する主のヨブに対する絶対的な信頼が、ヨブをサタンの手に渡した理由でした。つまり、サタンにはヨブを滅ぼす理由はまったくなかった(2章3節参照)のに、ヨブの身に危険が迫ったのです。そして、ヨブは、主の信頼とおりに、今回も罪を犯すようなことは口にしませんでした(2章10節)。そこで、サタンは、ヨブの3人の友を呼び寄せました(2章11節)。初めは、3人の友は、ヨブを見て、ただただ、沈黙を守り、七日七夜、ひとことも語りませんでした(2章13節)。
3章では、ヨブが口を開きます。3人の友が、自分を訪ねてきてくれて、しかも、七日七夜も一緒に、たただた、沈黙の中でヨブの悲しみを共有してくれたことを感謝する心があったものと思います。だからこそ、3人の友に、自分の心を素直に打ち明けたのだと思います。自分が生まれたことをのろい、生まれなかった方が良かったと愚痴をこぼしました。
ところが、これをきっかけに、4章以降、3人の友が口を開くことになります。3人の友は、沈黙を破り、ヨブをあらゆる面から、罪ありとして攻めたてるようになります。ある意味、肉体の攻撃よりも、激しい攻撃がヨブに加えられることになります。長い間の友との親しい信頼関係が、一方的に破られ、ヨブの病と財産や子供たちを失うことになった理由を、3人の友達は、ヨブの罪にあると糾弾するのです。それでヨブが反論すると、3人の友達が、次々に、入れ代わり立ち代わり、ヨブを攻めるのです。そして、ヨブを論破できないので、彼らはいきり立ち、さらに激しく、3人掛かりでヨブを攻撃するのです。もはや友とは呼べないですね。自分を友のように装い、ヨブを攻撃するのです。これこそ、ヨブの最後の試練でした。
きょうの4章は、トップバッターとして、テマン人エリファスがヨブに話しかけます。ヨブを、一般論で攻めたてます。「だれか罪のないのに滅びたものがあるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか」(4章7節)。「人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか」(4章17節)。こうして、災いを受けているヨブは、罪を犯したに違いないという結論をだすのです。真実はその逆で、神がヨブを潔白で正しい者とみておられるがゆえの試練でした(1章8節、2章3節)。しかし、天上での出来事を知らない3人は、地上でのヨブの現実の姿をみて、無実のヨブを攻めたてるのです。
清宣教師