1節、シュアハ人ビルダテがヨブに語りかけます。エリファスのことばよりも短いですが、これはビルダテの主張が基本的にエリファズと同じであり、ビルダテはエリファズのことばを補足、補強しようとして語っているためと思われます。

2節~7節において、ビルダテは、「神は公儀を曲げるだろうか」という立場に立ち、神は罪ある者を罰するのであり、罪なきものを罰することはありえない。ゆえに、ヨブが災いを受けたのはヨブが罪を犯したからであり、ヨブの子どもたちが災いにあったのは、ヨブの子どもたちが罪を犯したからであるに違いない(4節)、と断定するのです。そして、罪を悔い改めよ、そうすればあなたは回復される(6節)と勧告しました。ビルダテは因果応報という原理に立つ、教条主義者である。そこには一見、真理があるようで、愛はない。まさに、コリント人への手紙第1131節、2節に記されている通りで、ヨブにはまったく通じない。3人の友達の立場は、イエス様に対するパリサイ人や律法学者の立場とほぼ同じように見える。律法や原理原則を用いて、人を建てあげるのではなく、人を裁き、自分を優位に立たせるための議論です。パリサイ人や律法学者たちは、イエスは神の御子であるはずがないという前提にたっていました。ヨブの3人の友達もヨブに罪があるという前提にたっていました。パリサイ人も律法学者も、ヨブの友達もみな、自分たちは神の側に立つ人間であり、神のみこころを語り、神のみこころを行っていると確信していました。それだけ、自分を義と見なしていたのです。

8節~10節において、ビルダテは、自分が語っていることは先祖代々の人たちの語ったことに合致しており、自分の言うことは正しいと主張する。

11節~19節において、ビルダテは、悪人の行く末について、水のないところに植えられたパピルスや葦のように、やがて、枯れてしまう運命にあるという。神を忘れた者たち、神を敬わない者たちの運命も、このように滅びると語る。つまり、ビルダテもまた、エリファズと同じように、ヨブを罪ある者として断罪している。

20節~22節において、ビルダテは、潔白な人の運命について語る。神は潔白な人を退けない、そして、あらゆる笑いで満たすという。ヨブは、繁栄から遠ざけられており、神の祝福を得ていない。それはヨブが潔白ではないからだ、ゆえに、悔い改めよ、と主張する。このような主張は、イエス様の弟子たちにも影響していました。あるとき、弟子たちは盲目の息子をつれている親を見たときに、あの息子が盲目になったのは、親の罪のせいですか、子の罪のせいですかとイエス様に尋ねている。しかも、当然のこととして、彼ら親子に聞こえるように話している。つまり、教条主義には、愛や配慮が入り込む隙間もなくなるのが恐ろしいことである。イエス様は、弟子たちの質問に対して、この親でも、この子のせいでもありません。神の栄光が表れるためです、と語られました。私たちの中には、健康であったり、物事がうまくいっていたり、経済的に余裕があったり、家族がしあわせであったりすると、それは、自分たちが正しい人生を送っているからであると錯覚して、そうでない人たちを裁いてしまうことが、往々にしてあります。それは、自己中心の価値観による間違った判断です。

清宣教師