ヨブは答えます。「いつまで、あなたがたは私のたましいを悩まし、そんな論法で私を砕くのか」と。「もう。十度もあなたがたは私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめる」(3節)。この日本語の表現は、あまりにも丁寧過ぎるように思います。実際の表現は、イライラするヨブが激しい口調で友達に対して論争を挑んでいるのだと思います。

この惨めな状況の中で、ヨブの友達は、自分たちがヨブのような状況にはないという理由だけで、自分たちは正しく、ヨブは悪人であると断罪し、(義人を断罪することがどれほど大きな罪であるかを理解することなく)3人で寄ってたかってヨブを虐めています。かつて、ナチスの収容所に強制収容されていたフランクルは、収容所の中で、一番、耐えがたかったことは肉体的な暴力ではなく、精神的な暴力であったと述べています。虐めるという表現ですが、ヨブの友達は実際的な暴力ではなく、ことばの虐めであったので、自分たちがヨブを虐めているという罪を犯している自覚はなかったようです。一方、ヨブは、「いつまで」(2節)と言っています。ヨブの友人たちが、繰り返し、繰り返し、執拗に同じことを言ってくるのは、まさに、集団による虐めでした。

7節以降、ヨブは、神に対して、訴えています。神が自分の訴えを聞いてくれないこと、正しい裁きを求めても神は答えて下さらないことへの訴えです。また、13節~20節では、家族、友人、知人、しもべたちみんなから敵対視され、見捨てられている状況にあることを神に訴えています。しかし、この逆境の中で、一筋の光へと、導かれるのです。

21節~24節において、ヨブは自分の言い分を聞いてくれるものが誰もいないことの苦悩を言い表し、ヨブは自分の言い分を岩に刻んで永久に残しておきたいという気持ちを言い表しています。その絶望ともいえるどん底から、一筋の光へと導かれるのです。

25節~27節において、ヨブの信仰と悟りの頂点ともいえる、贖い主への確信が語られています。私を贖う方は生きておられる。贖うとは、贖いの権利と関係しています。贖いの権利があったのは最も近い親族でした。ヨブは、自分の親族の最も近い方として、自分を弁護して下さる方が生きておられる、という確信へと導かれたのです。ヨブは主のしもべとして、深い苦悩の中で、主の摂理の中で悟りへと導かれているようです。(神のしもべであるヨブは、なぜ、この試練が自分を襲っているのか知りませんが、主なる神は、しもべヨブのことを良く知っているがために、あえて、サタンの攻撃を許したのです。ヨブが神を信頼することが試されているようですが、実は神がヨブを完全に信頼しているという土台の上に成り立っていることが見えてきますね)。ヨブの神のしもべとしての神への忠誠は、試されてはいますが、ますます、その忠誠がダイヤモンドの輝きのように光を放ってくるのです。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりのうえに立たれることを。」ともかくも、目で見えるものではなく、目に見えないものにこそ、目をとめるヨブの信仰は、その信仰が本物であることを証しています(へブル人への手紙111節)。

28節、29節で、ヨブは友人たちに警告して、話を閉じます。

清宣教師