33章の終わりの部分で、エリフは、ヨブに対して答えを促しましたが、ヨブの応答がないので、続けて、エリフは語り続けています。2節~4節で、エリフはヨブだけでなく、3人の友人たちに対しても呼びかけています。そして、自分たちの間で、より良い知恵を求めて、ともに納得できる結論を出そうと提案しています(4節)。

5節~9節では、エリフは、ヨブのことばの中に見られる問題点を指摘しています。5節、6節、9節でヨブが語ったことばを要約しています。この要約には誇張が感じられますが、ヨブは反論していないので、本質的なことでは間違っていないようです。根本的には、エリフが問題としているのは、やはり、「ヨブが神よりも自分自身を義としている」ことにあります。

10節~15節では、エリフは、「神が悪を行ったり、公義を曲げたりしない」(12節)ことを強調しています。しかし、ヨブにとっては、これは自明の理であって、問題の解決ではないのです。むしろ、これがヨブの出発点なのです。神は、悪を行ったり公儀を曲げたりしないお方であるからこそ、ヨブの苦悩が始まっているのです。

16節~30節では、エリフは、神の公義が人間の社会の中で、どのように表されているかを詳しく説明しています。エリフは、このことを教条的に述べているわけではなく、ヨブの主張を聞いたうえで、ヨブの行き過ぎを修正しようとしているように見えます。「神が黙っておられるとき、だれが神をとがめえよう」(29節)。エリフにとって、ヨブが神を天の法廷に訴えようとしているところに行き過ぎがあると感じているようです。

31節~37節では、エリフは、究極的にすべてを統治される神の前に、人がなすべきことは、へりくだり、罪を告白することであると諭します。もし自分の罪が分らなければ神に示していただく方法があること、ヨブのように、自分の考えで神を動かそうとするのは間違いであると指摘しています(31節~33節)。そして、ヨブのように頑なに自分自身の義を主張し続けることは、分別のある人々や知恵のある人たちの考えに反することであり、さらなる罪を犯すことになるに違いないと警告しています(34節~37節)。

ヨブとしては、神が答えて下さらないので、自分自身の潔白を主張し続ける以外になかったのですが、これは、自分の立場を神の立場と等しいものにする危険性をもっていました。それをエリフは、懸念しているようです。そこで、エリフは35章で、自分の意見をさらに続けて語ることになります。

 

清宣教師