きょうの詩篇42篇1節、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。」はリビングプレイズの中で、大好きな曲目のひとつです。注解書によれば、これは雌鹿であり、臆病なことで知られるものです。こんな臆病な雌鹿であっても、喉の渇きをいやすためには恐ろしい猛獣の脅威にもかかわらず、谷川の水を慕うものである、と記されていました。そこまで現実的に考えず、ロマンチックに賛美していた私ですが、追放され、亡命している者の歌ともいわれており、危険の中での主への礼拝の飢え渇きが伝わってきます。迫害の中で死を覚悟するほどの神への飢え渇きです。「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」熱い心が伝わってきました。5節と9節に繰り返し、出てくる表現ですが「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い。私の神を。」と記されています。待ち望むこと、それが信仰の真髄であると気づかされました。
フランスの著作家、シモーヌ・ヴェイユは「じっと忍耐しつつ待ち望むこと、これが霊的生活の土台である」と書き残しています。忍耐がないとき、待ち望むことは単なる希望的観測になってしまいます。忍耐の語源は、「苦しむ」ということばです。イエス様は「産みの苦しみ」と呼ばれました。苦しみを伴う忍耐によって生み出された「待ち望む」姿勢は、私たちの悲しみの涙と嘆きを純化し、わたしたちに約束された神の喜びを受け取ることが出来るようにする原動力です。
ヘンリー・ナウエンの著作を通して教えられていることは、次のことです。「待ち望むこと」が出来る人となることこそ、真の喜びをつかむ人です。明日を待ち望むことが出来る人は、きょうを良く生きることが出来る人です。悲しみから喜びが生れることを待ち望むことが出来る人は、新しい命が、古い命の真ん中から芽生えることを発見できるひとです。また、主が再び来られることを待ち望むことが出来る人は、自分たちの真ん中に主がすでにおられることに気付くひとです。
私に必要なことは、待ち望む信仰であると痛感しています。最近の経験ですが、真に「待ち望む」信仰なしに祈ることは、サタンの仕組んだ蟻地獄の穴に巻き込まれてしまうということを体験しています。さまざまな執り成しの祈りをしている中で、あまりにも解決の遠いこと、エリヤのような手のひらの雲(解決の兆し)がみえないことのゆえに、否定的な暗闇の力に覆われてしまうのです。そこから完全に解放されて、主の前に正しい祈りを捧げるためには、主を待ち望む信仰とそれに伴う喜びが必要であることを学ばされています。やがて、来たるべき天の御国ではすべての問題は完全に解決します。最終的にはすべてが主の介入により解決されます。そのことを「待ち望む」信仰を土台として、そのうえに、執り成しの祈りを築くことが、いまの課題です。
きょうの詩篇42篇は、私にもピッタリの詩篇です。
清宣教師