今日、生きていること、生かされていることを喜びます。
70人訳(ギリシャ語訳)旧約聖書では、「アッシリアについて」という表題がついています。
紀元前701年に起こった出来事ですが、セナケリブ王がユダに侵入し、一夜にして退却せざるを得なかった不思議な敗北は、イスラエルの民にとって神の偉大さと栄光を覚える記念すべき出来事でした。それらを背景としてこの詩篇が生れたと考えられています。
1節の「イスラエル」ということばですが、当時は、すでに、北イスラエルは滅亡していましたので、「ユダ」と「イスラエル」は同義的に用いられています。2節の「シャレム」とは、エルサレムの古い呼び名、あるいは詩的な表現であると考えられています。「エルサレム」とは「平和の町」「平和の所有」、「平和の基礎」という意味です。ここではエルサレムとシオンは同義に用いられています。「仮庵」とか「住まい」と表現されているのは神殿のことです。3節の「その所で」とは、実際の戦いの場ではなく、神の拠点としてのシオンを表しています。4節の「えじきの山々」とはアッシリアのことを指すと思われます。5節の[眠りこける]とは、死の眠りのことです。6節の[深い眠り]とは、超自然的な眠りを指しています。7節では、「あなた」が繰り返されることにより、主なる神様の主権を強調しています。8節の「天」は、神の裁きが確立され、神の裁きが宣告される所です。9節の「貧しい者たち」とは、イスラエル、神の民、神を恐れる信仰者を指しています。10節の[憤り]とは、人の憤りであり、神に抵抗する人々の憤りをも、神は、ご自分の栄光を表す手段として用いられます。11節の「誓いを果たせ、贈り物を捧げよ」ということですが、実際に、歴代誌第2、32章23節に、そのことが記されています。12節では、「いのちを絶たれる」と記されていますが、原語ではいのちは「ルーアハ」と記されており、地の支配者たちの誇り高ぶった精神を主が打ち砕かれるという意味にも取れる個所です。神は人間の誇りや力にとどめを刺されるお方ですが、神の畏れるものには、このような希望を与えて下さるお方です。
天と地と海と水の源を創造された主に、さらに多くの祈りを捧げていきましょう。この国が生きるために、そこに住むひとりひとりに幸いが与えられますように、祈り続けましょう。
清宣教師