きょうも、主の御手の中で生きること、創造主の作品の中で生かされていることを喜びます。
詩篇77篇は、現在の試練と苦悩の中で、主が祈りを聞いて下さらないという自分の感覚と、主は必ず祈りを聞いて下さるお方であるという信仰との二つの間で葛藤している思いを表しています。しかし、過去のことを振り返り、その都度、主なる神は必ず救って下さったことを思い出すとき、現状の試練と苦悩に対しても、将来必ず、救い出してくださるという信仰にたつことができるという確信を表明しています。おそらく、この詩は、イスラエルがバビロン捕囚という神の裁きを受けて、神はご自分の民を完全に捨ててしまわれたのだろうか、という思いが自分たちを圧倒しようとする中で、いやそうではない、過去において、神はイスラエルの民をエジプトの圧政とエジプトの奴隷という苦しみの中から、救い出してくださったという歴史的な事実を思い起こし、将来、神はイスラエルの民をバビロンからも救い出してくださるという確信を表明している内容となっています。
1節―3節では、自分たちが捧げる祈りがむなしく感じられるほどの大きな苦難の状況にあることを示しています。
4節―9節では、イスラエルの民が豊かな神の祝福を受けていた過去の状況と、現在のイスラエルの民の苦しみの状況を対比しています。
10節-12節では、詩人が悩み、疑い、神に対して不満をいだいたのは「神の御手が変わったのではないか」という発想によるものでした。しかし、そうではない、主の御手は変わっていないということに気付くのです。それは、過去のあの出エジプトの恵みを思い起こすことによってでした。それで作者は、「私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」と決断しました。
まさにイザヤ書30章15節に記されていることです。「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る』」。
13節―20節では、出エジプトの出来事を思い出しています。19節に記されているように、主の解決の道は、人間には想定外の「海の中に」、「大水の中に」隠されていました。そして、最後の20節です。神は、決して現在のイスラエルの民の苦難を見過ごされているのではなく、まことの羊飼いのように、優しく守り、育んで下さるのです。
いま、次から次へと降りかかる試練の中で、「主の御手は変わったのではないか」、「主は私を見放されたのではないか」、「私の祈りは聞かれていないと」いう思いの中で葛藤されている方々がおられるかも知れません。しかし、父なる神は、あなたを御子キリストのいのちの代価を払って買い取って下さいました。その御子の犠牲を無駄にされるお方ではありません。聖書には、次のように記されています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ人への手紙8章28節―32節)。