きょうも、「都上りの歌」という表題がついています。

乳離れした子のように、平安と安らぎのうちに、すなおに主に頼る信仰が歌われています。
1節―2節は、神への信頼。
「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」
最近、読んでいる本に、次のようなことが記されていました。「楽しくない人生を変える方法:大人はもっと赤ちゃんを見習った方がいい」というタイトルです。
人が抱える不安や悩みの多くは、頭の中で作りだしたものではないでしょうか。つまり、私たちの生命そのものは、何も不安がったり心配などしていないのだと思います。そこには、この世に生まれてきた自分という「生命」がただ存在しているだけと考えてみて欲しいのです。もちろん、世の中では日々いろんなことが起きていますが、それを必要以上に心配したり、悩んでもどうにかなるものではありません。私たちは、あまりにいろいろなことを頭で考えすぎているのではないか。私はそう思うのです。そして、頭で考えすぎている患者さんに対して私は、「もっと、おっぱいに任せればいい」と言っています。それは単に、生物としての自然な役割からすれば、誰しもお母さんから生まれてきている、ということを言いたいのです。そのことに疑いを持つ赤ちゃんはいないでしょう。つまり、生物としての存在をすべてお母さんに委ねているからこそ、赤ちゃんは素直に生きられるのだと思います。エンジェルスマイルと呼ばれる笑顔が、そのことをよく表現しているのではないでしょうか。そこには何の不安も悩みもありません。それは大きく考えれば、自分の肉親としての親だけでなく、私たちにいのちを与えて下さった、まことの親であるお方に委ねているということと同義ではないでしょうか。自分のいのちを委ねる。すなわち何も心配せず、自分に素直に生きることができると、とても楽です。頭であれこれ考えすぎて心配している人ほど、しんどい思いをしていると思います。・・・・
きょうの詩篇に記されていますが、あれこれ、将来のことについて、及びもつかない大きなことなどを考えて心配するのではなく、乳離れした子のように、ただ、親の庇護にゆだねて、安心している状態です。創造主なる神様は、確かに、そのように頼れるお方です。頭で考えて心配することをストップです。霊において、天の父の優しい心に信頼して、将来のすべてを委ねましょう。なにか、自分が力ある者であるかのような生き方を止めて、乳呑児のように、素直に天の父のお世話に信頼して委ねることです。
3節は、イスラエルへの勧め。
「イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。」
そうですね。主を待つことこそ、私たちの魂にやすらぎと平安をもたらす秘訣です。
「都上りの歌」とありますが、神殿への巡礼の旅は、結局、天の父に、自分自身を委ねるための旅であったのではないでしょうか。
清宣教師