今朝は、玄関の戸をあけて外に出ると、とても気持ちの良い朝でした。紅葉が濡れた舗道に、押し葉のように、5本の手を拡げて張り付いていて、その紅葉を散らした模様は、とても美しく、創造主の作品に感嘆しました。
さて、前にも書きましたが、イザヤ書の1章から12章までは、ユダとエルサレムに関する審判と預言でした。13章から23章までは、諸外国に対する審判と預言でした。その内容は、創造主は、アッシリヤを怒りの杖として裁きを行われるというものでした。
きょうの24章から27章までは、「イザヤの黙示録」と呼ばれる個所です。なぜなら、その内容が、宇宙的、巨視的であり、しかも、象徴的神秘的な表現となっているからです。24章では、「地」(ヘブル語でエレツ)ということばが16回も使用されています。
1節―13節:ユダの荒廃。
これらの描写は、南ユダの荒廃であると解釈されます。完全な荒廃が描かれています。その荒廃の理由としては、「彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである」(5節)と明言されています。最後の13節は、オリーブの木の実が打たれて収穫される時のように、あるいは、ブドウの実の収穫の時のように、ほとんどの実は収穫されるが、わずかの実が残される。残りの者がいるということです。
14節―23節:主による回復。
ここからは南ユダではなく、全世界を対象としたものであることが分ります。ここでは、全世界に向かって、イスラエルの神、主への賛美が呼びかけられています。さまざまな裁きがなされます。地はふるわれます。21節の「その日」とは、「審判の日」です。21節―23節では、万軍の主の最終的な勝利が描かれています。月も太陽も恥じるほどの、まばゆい主の栄光が全世界を照らします。万軍の主はエルサレムで全世界を君臨されます。
主は、私たちを最後の審判において、永遠の地獄の滅びではなく、永遠の祝福の天国へといれるために、御子イエス様をこの地に送って下さり、贖いのわざを成し遂げて下さいました。主に感謝します。明日は、主の贖いを覚えて、主のみからだを象徴するパンとブドウ液に与る、主の晩餐です。
明日のイザヤ書25章は、「救いの賛美」です。25章1節―5節は、勝利の神への賛美、6節―8節は、救いの祝宴、9節―12節は、さばきによる主の救いの賛美です。
明後日のイザヤ書26章は、「賛美の歌」です。26章1節―6節は、主に守られる都、7節―15節は、さばきにおける主の働き、16節―19節は、苦難の中の希望、20節―21節は、励ましの勧告、となっています。
清宣教師