29章においてヒゼキヤ王が即位して素晴らしい宗教改革が始まりました。新しい時代を象徴するものとして、ヒゼキヤ王の治世の第1年の第1の月に、これまで閉鎖されていた主の宮の扉が開放されました。そして、主の宮が聖別され、主の宮に仕える祭司たちやレビ人たちも聖別されました。そして、全焼のいけにえ、和解のいけにえが捧げられました。

30章では、ヒゼキヤ王が南ユダ王国だけではなく、北イスラエルの諸氏族にも過ぎ越しのいけにえを捧げるために、エルサレムの過ぎ越しの祭に参加するように招きの使者を遣わしました。北イスラエルの諸氏族の反応は冷淡でしたが、その中にも招きに応じた人たちもいました。アシェル、マナセ、ゼブルンの人たちでした。準備が整っていなかったので1カ月遅れの2月の14日に過ぎ越しの祭を行いました。ユダの全集団、北イスラエルの地から来た全集団、また、北イスラエルの在留異国人たちなど、みなが大いなる喜びに満たされました。「彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた」ということばで締めくくられています(30章27節)。

今日の31章では、南ユダ王国の町々から偶像を取り除く運動が起こり、それらのことを果たして後、人々はそれぞれの町へ帰って行きました。さらに、ヒゼキヤ王は、主の宮に仕える祭司とレビ人たちの組を定めて主の宮での奉仕に支障が出ないようにしました。さらに、これらの祭司やレビ人たちの生活を支えるために、主の律法に定められたように、十分の一の捧げ物を実行するように命じました。そして、王みずから忠実に実行しました。その結果、多くの捧げ物が捧げられて余るほどになりました。その残りは主の宮の脇部屋に保管されました。奉納物はきちんと管理され、分配されました。16節に、「3歳以上の男子」と記されていますが、祭司の子らは、3歳になると、親の側で奉仕を見習っていたためと思われます。エルサレム以外の地方においても、祭司とレビ人たちに対する十分の一の捧げ物が忠実に実行されました。ヒゼキヤの宗教改革は、南ユダの全国に及びました(21節)。

今日の個所で注意をひく言葉は、「食べて、満ち足り、たくさん残りました。主が御民を祝福されたからです。その残りがこんなにたくさんあるのです。」(10節)ということばです。イエス様が、「神の国とその義とをまず第1に求めなさい、そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章33節)と言われた通りです。十分の1献金を捧げる時、すべての必要が満たされるだけでなく、満ち足り、多くの残りが生じるのです。神の祝福がそのひとを富ませるのです。十分の一献金を実行する時に、主はその収入と支出を祝福されます。収入を増やし、不要な支出を減らして下さるのです。もし、収入が少なくて生活が苦しいという状況があれば、収入の10分の1を忠実に捧げることが解決の近道です。収入があったら、その中の10分の一を聖別して捧げるのです。こうすれば、なにもないところから捧げることはなくなります。収入があったら、まず第1に、その中の十分の一を聖別してわけておき、捧げるのです。この習慣を身に付けるなら、経済は祝福されます。「祝福された人生」の秘訣です。

清宣教師