昨日の5章では、イスラエル人の苦役は限界に達していました。しかし、主はモーセに言われました。「わたしがしようとしていることは、今にあなたにわかる。」(1節)。そして、「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。」(6節)と語られました。そして、約束のことばを与えられました。そこで、モーセはイスラエルの民に、神のことばを話しましたが、「彼らは『落胆』と『激しい労役』のためにモーセに聞こうとはしなかった。」と記されています(9節)。落胆と激しい労役は、容易に消え去りません。私たちの中にある落胆と、外からの激しい労役は、神の約束のことばが心の中に根をおろすことを拒否します。モーセも、落胆の沼に陥っていたようです。主がモーセに告げて、もう一度、エジプトの王パロのところへ行って、「イスラエルの民をエジプトから去らせよ」と告げるように命じられたのですが、ここで、またもや、モーセは主の前に訴えました。「イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです」と言いました。モーセはあまりにも落胆していました。
6章の最後に、繰り返し、モーセが「私は口べたです」と訴えたことが記されています。これほどまで、モーセはしり込みしています。驚きますね。しかも、モーセは、大きな勘違いをしています。雄弁なら、イスラエルの民も、エジプトの王パロも耳を傾けるに違いない、と思い込んでいます。私たちも、賜物や能力や財産や地位などに目を向けてしまいます。偉大な賜物があれば、素晴らしい能力があれば、これだけの財産があれば、高い地位があれば、・・・・神様以外のものに目をむけて、それらのものが物事を成し遂げる力があると信じています。しかし、それはみな偶像です。神ご自身が、パロをひざまずかせるお方です。それなのに、多くの場合、神ではなく、別の条件に目をむけてしまいます。
まさに、先端技術の時代に生きている私たちは、さまざまなコミュニケーション技術、さまざまな高度なテクニックに目が向いてしまいます。今から4千年も前のモーセの時代でさえ、モーセは「私は口べたなのです」と言ってしり込みしました。現代に生きる私たちにとっては、なおさらのことです。高度なスキル、高度な知識、高度な能力、それらのものが、問題を解決する時代に生きています。ですから、私たちには、心の内側から、たくさんの言い訳があふれてくるに違いありません。しかし、聖書は「神の国と神の義を第1に求めなさい。そうすればすべてのものが与えられます」というのが原則です。あえて、『愚かな者』、『弱いもの』、『無に等しいもの』を選ばれたのです(コリント人への手紙、第1、1章26節~29節)。私達は、今の時代にあって、主の言葉を信じて、聖霊様からすべての知恵をいただいて、堅く立つことが求められています。世の中の潮流に逆らって、主のみことばと聖霊様の導きに堅く立つことです。今も、主は、ご自分の民を、あらゆる束縛から解放されようとしておられます。
私達はモーセです。モーセという名は、ナイル河という死と滅びの中から「引き出された者」として、最初に命名されました。私たちも、罪と滅びの中からイエス・キリストによって「引き出された(救い出された)者」です。しかし、神は、モーセという名前を、多くの人をエジプトの滅びと束縛の中から引き出すものという新しい意味に変えられました。私たちも、イエス・キリストによって救い出された者という最初の意味から、私たち自身が、神によって多くの人たちを死と滅びから引き出すもの(救い出すもの)となるという新しい意味に変えてくださいます。
きょう、どうぞ、あなたの愛で私の心を満たしてください。そして、私に洞察力を与えて下さい。いま、主のみことばの約束と聖霊の力によって、私を満たしてください。
清宣教師