イスラエルの民たちは、シナイの荒野(1章~10章10節)を経て、パランの荒野(10章11節~19章)へとやってきました。そして、この20章からは、ツィンの荒野に入ります。さらに、22章からはモアブの草原に入ります。
さて、このツィンの荒野(20章1節)で、モーセの姉のミリアムが死に、葬られました。そして、20章の後半では、モーセの兄のアロンが死にます。こうして、モーセの死も近いことを感じさせます。出エジプトの時から、もう40年近く経過しているのです。約束の地は、目前に迫ってきているのです。
ところが、2節以降の事件を見ると、なんと、出エジプトを果たして、まもなくのメリバの出来事(出エジプト記17章1節~7節参照)を思い出させるようなことが記されています。事の発端は飲む水がないということでした。そして、会衆は集まり、モーセとアロンに対して逆らい、モーセに言いました。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない」(3節~5節)。まったく、民たちの態度に成長がみられません。せっかく、次世代の民たちが、荒野で訓練を受けてきたのですが、生まれつきの人間の本質というか、自己中心の不平不満の本質は世代が変わっても、簡単には変わらないようです。しかも、彼らは反逆者にもかかわらず、自分たちを「主の集会」と呼んで、自分たちの立場を正当化して、モーセに逆らったのです。偽りの反逆者は、民たちを扇動するのに、彼らの心の中にくすぶっている日常的なプライド、不平や不満を利用しています。要注意です。
さて、モーセとアロンは会見の天幕の入り口にひれ伏して、主の答えを待ちました。主は栄光の中で、モーセに対して、杖を取り、会衆を集めて、岩の前で、岩に命じるようにと指示しました。そこで、モーセは主が命じられた通りに、杖をもって、岩の前に、会衆を呼び集め、彼らにいいました。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」そして、モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打ちました。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲みました。これで一件落着のように見えましたが、じつは、予想もしなかった深刻な事態をもたらすことになりました。モーセが、主のことばを軽んじて、岩に命じて水を出すのではなく、自分の勝手な判断で、杖で岩を打ったことです。しかも一度ではなく、2度も打ったことです。それは、不信仰の表れであり、民たちに対して、主の聖なることを現さなかったたゆえに、モーセとアロンはもやは、約束の地に入ることができない、という宣告をうけてしまったのです。かつて、モーセは、杖を打って、岩から水を出した経験がありました。あるいは、何度も何度も、モーセに対して反抗する民たちに対して怒りと苛立ちがあったことと思います。ですから、主に栄光を帰するのではなく、「この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」ということばになってしまったのです。この出来事は、モーセの唯一の失敗でしたが、イスラエルの民の指導者としての責任はとても重かったのです。モーセとアロンは、約束の地に入ることは出来なくなりました。
さて、約束の地を目前にして、モーセはエドムの王に手紙を書きました。エドムはエサウの子孫ですから、ヤコブの子孫であるイスラエルの民とはいわば、兄弟の関係にありました。ですから、「あなたの兄弟、イスラエルは申します」という書き出しで始まり、事の次第を順序正しく書き記し、エドムの領内を通る許可を求めています(14節~17節)。しかし、エドムの王は、これを拒否しました。そこで、改めて、エドムの王に対して、申し入れをしました(19節)。しかし、エドムはこれを拒否したばかりでなく、大軍を持って出てきました。それで、イスラエルは方向を変えて、エドムの領内のホル山に向かいました。主はそこで、モーセに対して、アロンとその子のエルアザルを連れてホル山に登るように命じられました。そこで、彼らはホル山に登り、モーセは、アロンの衣服を脱がせて、その子のエルアザルにその衣服を着せました。これは、アロンからエルアザルへの大祭司の職務のバトンタッチの儀式です。アロンはホル山の頂で死に、全会衆はアロンのために30日間、喪に服しました。
きょうの個所は、私たちの生まれつきの肉の性質、自己中心の本質は、訓練によっては変わらないことを示しています。ただ、私たちの創造主である神の介入によってのみ、可能となることを示唆しています。神の御子キリストが、十字架の上で贖罪を成し遂げられて、天に昇られて、父の御許から御霊をつかわしてくださいました。御霊による以外に、生まれつきの自己中心の生き方から解放される道はないのです(ヨハネの福音書3章3節~8節参照)。御霊による新しいいのち、新しいクリスチャンとしての人生を感謝します。
清宣教師