今日のイザヤ書26章は、「賛美の歌」です。1節―6節は、主に守られる都。7節―15節は、さばきにおける主の働き。16節―19節は、苦難の中の希望。20節―21節は、励ましの勧告となっています。
前章では、人類の究極の敵である死をも滅ぼされる神の救いについて述べられていました。26章は、永遠に堅く立つ城壁の都エルサレムについて述べています。都に住むことが出来るのは、「誠実を守る正しい民」、「志の堅固な者」たちです。この都には、ユダの民以外に、全世界から来る誠実を守る者たちを「入らせよ」と命じられています。貧しい者や弱い者たちが、主の勝利にあずかることが約束されています(1~6節)。主は正しい者たちの歩みを守られます。ただひたすら、主の御名を呼び求める、主を待ち望む者たちこそ、義人といわれるにふさわしい者たちです。11節~13節では、イザヤ自身が、「主よ」という神の御名を呼び求める義人の祈りを捧げています。14節では、神の民を支配していた外国の侵略者たちを主が滅ぼされたことを述べています(7~15節)。神の民が遭遇している苦難は、神からの「懲らしめ」であると述べています。それで、産みの苦しみをしても、風を産んだようなもので、喜びをもたらさないのです。こうして、神の民は、救いを地にもたらすことが出来ず、嘆きの中にあります。しかし、主はこの無力を嘆く神の民に対して、最終的な勝利を約束して励ましています。ここで、聖書は、明白に死者の復活をのべています(16~19節)。20節では、「さあ、わが民よ」と言われて、主はご自分の民が次に何をなすべきかを教えています。不信仰の諸国の民に対する終末の神の憤りが終わるまで、ちょうど、エジプトから脱出した時の過ぎ越しのときのように、自分の部屋に入り、戸を閉じて、身を隠すように命じられます。裁きの主が、ご自分の住まいから出て来られて罪を罰せられるからです。
今日の聖書の個所から教えられることは、終末時代の審判の時に、神の民は、子羊の血潮で守られた、過ぎ越しの時のように、主イエス様の贖いの血潮によって守られることです。神の御子イエス・キリストの贖いのわざは、完璧です。
清宣教師