さて、23章は、大きく分けて二つにわかれます。前半(1節―8節)は、新しい王朝の希望。後半(9節―40節)は、偽りの預言者に対して、語られています。牧者たちとは南ユダの政治的な指導者のことを指しています。彼らは自分たちの利得のために生きていました。本来、主なる神が、彼らを王として、政治的な指導者として立てたのは神の民に平安な生活をもたらすためでした。しかし、王たちは、私利私欲に走り、民たちを追い散らすような結末をもたらす者となりました。しかし、主は、民たちのために、正しい若枝(メシヤであるイエス・キリストのこと)を立て、永遠の神の国を打ち立て、そこは正義と公義が行われます。その王は、「主は私たちの正義」と呼ばれます。エジプトの民を奴隷の状態から救出した出エジプトはイスラエルの民の歴史の原点となりました。しかし、今度は、バビロンの捕囚からの解放が、「主は生きておられる」という証となり、第2の原点となります。また、それは終末時代において、御子イエスが再臨されて、神の民たちを解放し、天の御国に入れられることをも預言するものです。9節以降は、偽りの預言者に対して語られた神の宣告ですが、最初の9節と10節はエレミヤ自身のことばです。エレミヤは真の預言者として神のことばを授かっていたが、そのために、あたかも、葡萄酒にまけた男のように、まっすぐに立っていられない状態だった。なぜなら、国中のものが、不信仰と偶像礼拝に満ちていたからである。11節―14節は、北イスラエルの預言者と称する者の中には、バアルを礼拝しながら主の名によって預言する者たちがいた。しかし、それだけでなく、南ユダのエルサレムの中の預言者と称する者の中にも偶像礼拝をしながら、主の預言者として語る者たちがいた。15節ー24節:神は彼らを遣わさなかった。勝手に自分が見た幻を主からの預言として語る者たちがいた。エルサレムの住民に対して、わざわいは来ない。バビロン軍はこないと預言するものたちがいた。天上における主の会議に預からなかった者たちが、勝手に、預言している。25節ー32節:自分が見た夢を主からの啓示だと言い張り、自分たちの夢を神の啓示であると主張する者たちがいた。彼らは偽りの預言者である。まことの神のことばは人を砕くものであり、人を悔い改めに導くものである(29節)。彼らは神のことばを盗む者で神の敵である。自分たちの言いたいことを言って民をだましている。神の名を使って自分たちの考えを語る偽りの預言者たちは、何の役にも立たない。33節―40節:主の重荷である偽預言者。33節の主の「宣告」とは、ヘブル語では主の「マサ」と発音される。主の「宣告」とは何か、と尋ねられたら、あなたがたが「マサ」である、と言いなさい。「マサ」とは「重荷」という意味もある。語呂合わせになっていると思われる。預言者たちが、勝手に、「主の宣告」ということばを用いていることに対して、主は必ず、裁きを行うことを宣言されている。
今日の聖書箇所から教えられることは、日本の国が偽預言者たちの手から守られるように祈る必要があることです。現実的に、遺伝子組み換え、LGBTの受け入れ、AIの利用、原発の利用などにより、日本の国の将来をバラ色に描く科学者や政治家などがいます。しかし、それは偽りです。創造の秩序を破壊するなら必ず報いを受けます。真実を識別できるように祈りましょう。
清宣教師