さて、きょうの24章は、非常に分りやすい個所です。そのまま、読んだだけでも意味が分かります。
ただ、時代背景も大事ですから、列王記、第2、24章1節―20節、さらに、お時間がありましたら、25章まで読むと、南ユダのバビロン捕囚の全貌、その後の南ユダの地に残された者たちの行方が分ります。さて、エレミヤ書の24章に戻りますと、1節にバビロン王のネブカデレザル(ネブカデネザルともいう)が、南ユダのエホヤキムの子エコヌヤ(のちにホエヤキンとなる)と共に、南ユダの先端技術を身に着けていた鍛冶屋や職人をみなエルサレムから捕え、引き連れて、バビロンに連れ帰えりました。BC597年のことです。今日の個所は、それらの出来事のあとのことです。主は主の宮の前に捧げられているふたつの籠に入ったイチジクを、エレミヤに示されました。一つの籠には、初なりのような甘くて大きい、非常に良いイチジクの実が入っていました。もうひとつの籠には、堅くて食べられない非常に悪いイチジクの実が入っていました。主は、バビロンに捕囚となった南ユダの民は、捕囚のあと、非常に良いイチジクの実として、南ユダに帰らせると宣言しました。しかし、バビロン捕囚を避けて、エジプトや近隣諸国、あるいは国内に逃れたものたちは、非常に悪いイチジクとして捨てるので、剣や飢饉や疫病により滅ぼし尽くすと宣言されました。これまで、繰り返し、主が語られたように、バビロンは、主の裁きの器であるから、従順にバビロン捕囚の刑を受けるなら、いのちを助け、また、その子孫を故郷の南ユダの地に帰らせると約束されたのです。一方、最後まで、バビロン王に抵抗して、主の裁きに服さないものたちはみな、滅ぼされるのです。実は、南ユダの民たち、エルサレムの住民は、主のみこころとは真逆のことを思っていたようです。つまり、エホヤキンや職人や鍛冶屋などがバビロンに連れ去られたのは、彼らが悪い果実であるからであり、エルサレムに残されているものは、良い果実であるからだと思っていたようです。このエルサレムは神の都であり、神殿があるので、滅ぼされることはないという偽りの安心に頼っていたのです。それで、主は、お前たちこそ、非常に悪いイチジクの実であると宣言されたのです。
今日の聖書箇所から教えられることは、一時的に滅びを免れたからと言って、主のみこころに従ったことの証しにはならないことです。主の裁きに服することが主のみこころであることがあるのです。主の裁きを免れたことが、主のみこころに従った証しとはならないのです。一時的な繁栄は真の証ではありません。主と共に苦しみを味わうことが真の証しです。
清宣教師