さて、ヨエル書2章1-11節は、1章に続いて、主の裁きによる「イナゴの大群」の襲来でした。「主の日」の裁きです。ある朝、目が覚めて山々をみると、黒い雲のようなものが空を覆っています。それが、だんだん、迫ってきます。近づいてい見ると「イナゴの大群」でした。昔、「大草原の小さな家」というドラマの中で、イナゴの大群が襲来した時の光景が思い出されます。何者もイナゴの大群の前進を止めることが出来ません。イナゴは飛ぶのではなく、歩くのです。地面を埋め尽くし、家があれば壁を登り、屋根に上り、越えていきます。とにかく、歩いていくのです。すべての植物の葉や茎だけでなく、畑の麦やトウモロコシの実もことごとく食べつくします。牛などが外にいれば、家畜まで食べられてしまいます。ローラのお父さんはやむなく、収穫間際の麦畑に火を放ちます。それ以外、家族が助かる方法がないからです。預言というのは、山の嶺のようであると、前にも言いました。ヨエルの時代の「主の日」は、イナゴの大群による神の裁きでした。しかし、もう一つの山の嶺は、私たちがこれから直面する終末時代における「主の日」の裁きです。主の日の裁きはふたつの側面があります。ひとつは、神を信じない者への裁きです。もうひとつは、神の民の救いの時です。12節―17節は、悔い改めへの招き、18節―27節は、主は悔い改めをよしとされ、繁栄を約束されます。「主はあなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ」(23節)。初めの雨とは、イスラエルでは、日本の場合と違って、秋に種を蒔きます。その時の秋の雨が「初めの雨」「先の雨」「秋の雨」と呼ばれるものです。一方で、春になり穂が出るころ降る雨が、「後の雨」「春の雨」とよばれるものです。初めの雨で、種まきが保証されます。後の雨で収穫が保証されます。「あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない」と回復を約束されました。しかも、イナゴに食い尽くされた年を償うほどの祝福を約束されました(25節)。ある意味、私たちの人生の中でも、いろいろとイナゴに食い尽くされる経験をしています。しかし、私たちが悔い改めるとき、私たちの不毛の人生が回復されるというのです。28節ー32節は、繁栄の約束ですが、中でも、終末時代(新約時代)における聖霊の働きを約束されています。旧約時代は、ある特定の人にだけ、主の霊が注がれました。しかし、終末時代には、すべての人に主の霊が注がれるのです。それは雨にたとえられるものです。ひとびとの魂の成長と回復のために、先の雨(ペンテコステの聖霊の満たし)と後の雨(今の時代における聖霊の満たし)が約束されています。ところで、韓国と日本の間に、相互の理解、確かな絆を築き上げることが出来るように、お祈りしましょう。
清宣教師