ルカの14章です。ある安息日の出来事が記されています。13章においても、やはり、ある安息日における癒しの出来事が記されていました(13章10節~17節)。そこでは18年間も、まったく腰を伸ばすことが出来ない病気にかかった女性がいました。イエス様は、その女性を呼び寄せて、「あなたの病気は癒されました」と宣言しました。そして、手を置かれました。すると、その女性の腰が伸びて、真っ直ぐに伸ばすことが出来ました。それを見た会堂管理者は、「働いて良い日は6日間です。安息日にはいけないのです」と群衆に対して憤りながら言いました。それを聞いたイエス様は、「偽善者たち、・・・この女はアブラハムの娘なのです。それを18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからと言ってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」と話されました。すると、反対していた者たちもみな恥じ入りました。群衆は、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜びました。イエス様のなさった「輝かしいみわざ」という表現は、独特で、素晴らしい表現ですね。一方、18年もの間、腰が曲がっていた病気の人ですが、イエス様は、この状況を、「18年もの間、サタンはアブラハムの娘を縛っていた」と表現されました。サタンは、もろもろの病気や災害などにより、人々を苦しめます。私たちも、祈りをあきらめることなく、長い間、サタンの束縛のもとにある魂が解放されるように、きょうも、明日も、祈り求めていきましょう。

そして、きょうの14章1節~6節では、やはり安息日のことでしたが、水腫を患っている男性のことが記されています。イエス様は水腫にかかっている男の人を抱いて癒して帰されました。ここで問題として取り上げられていることは、宗教指導者たちが陥っていた盲点でした。当時の宗教指導者である律法学者やパリサイ人たち、あるいは、会堂管理者は、律法を守ることに熱心でした。中でも安息日を守ることに特に熱心でした。しかし、その守り方は、血の通わない、形式的、教条主義的なものでした。人々の生活を束縛するものとなっていました。「律法に生きる」とは「束縛に生きる」ような錯覚をもたらすものでした。イエス様はしばしば、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と言われました。ですから、イエス様は、安息日にも、ためらうことなく、病人や悪霊に憑かれて苦しんでいる人たちを解放し、癒されました。私たちも、冷たい心で批評的に見るのではなく、イエス様のような、いのちが通っている「輝かしいみわざ」を行うひとになりたいです。さらに、イエス様は、食事に招かれた席で、上座を選んでいる人たちに対して、自分を高くする生き方ではなく、自分を低くする生き方をするように勧められました。さらに、ご自分を招いてくれた人に対しても、食事をふるまったり、よいわざを行う場合、見返りを期待しての良いわざではなく、見返りを期待できない人に対する良いわざこそ、永遠の報いを受けるのだと、お話されました。しばらくして、客のひとりが、イエス様に言いました。「神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう」。そこで、イエス様はひとつのたとえ話をされました。それは、ある人が盛大な宴会を催して、大勢の人を招いたのに、招かれた人たちはいろいろ理由をつけて出席を断ってしまったのです。それで、怒った主人は、町の大通りにいる人たちを手当たり次第、連れてくるように命じました。それでも空席があったので、街道や垣根のところに出かけて無理にでも人々たちを連れてくるように命じました。イエス様のたとえ話は、父なる神があらかじめ、ご自分の民として招待しておいた宗教指導者たち(祭司たち、長老たち、律法学者たち、パリサイ人たちなど)が、じつは神のみこころよりも、自分たちを義とすること、また、世俗的な報いに関心があり、神の国の福音に無関心であり、実質、神の国への招待を断ったこと、一方で、宗教指導者たちが見下していた取税人や、貧しい者、からだの不自由なものたち、遊女や罪人と呼ばれていた人たちが、神の国に招かれて、悔い改めて、神の国に入るものとなること、さらに、神を知らない異邦人たちも招かれて、悔い改めて、神の国に入るものとなることを暗示しているようです。さらに、神の国に招かれた者たちは、それにふさわしく、信仰の生涯をまっとうする覚悟、自分の十字架を負ってイエス様に従う覚悟が必要であること、自分の財産全部を捨てる覚悟が必要であることを指摘しています。自分たちこそ、神に選ばれた選民であると自負しているなら、それなりの覚悟が必要である、というのです。

清宣教師