イエス様の弟子たちに対する遺言のような、いのちを込めてのメッセージが続いています。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」と言われました。第1の奥義は、イエス様がぶどうの木であり、弟子たち(私たち)はその枝である、ということです。つまり、枝が幹から離れたなら、枝は枯れてしまうだけです。実を結ぶことは出来ません。枝が幹から10m離れるか、1m離れるか、1cm離れるか、1mm離れるか、問題ではありません。たとい1mmでも離れたら、いのちにあずかることは出来ずに枯れてしまうのです。距離の問題ではなく、幹についているなら生きて実を結ぶし、離れているなら、実を結ぶことは到底できないのです。これはとても重大な奥義です。私たちの日常の感覚では距離を問題にしますが、霊的ないのちの世界では、距離(量的な問題)ではなく、質的な問題です。もうひとつの奥義は、枝が幹にしっかり結びついているとして、実を豊かに結ぶかどうかは、父なる神のみわざによるというのです。それは農夫としての剪定の技術です。ぶどうの枝は、無益な成長(徒長)しやすいものです。農夫さんの適切な剪定によって、無益な成長をしないように選定されて初めて豊かな実を結ぶことが出来ます。その農夫さんの役割を果たすのは、天の父なる神様です、とイエス様は解き明かされました。この世の農夫さんの知識には限りがあります。例えば将来の天候を正確に知ることが出来ません。しかし、天の父なる神様は全能者でおられて、将来の天候を正確にご存じです。全能者である父が選定されるのですから、間違いがありません。つまり私たちは、イエス様のいのちにシッカリと結びついていること、そして、天の父なる神の剪定に委ねることのふたつによって、豊かな霊的実を結ぶことが出来るのです。それから、次に、イエス様が明らかにされたことがあります。それは私たちがイエス様の弟子としての人生を歩んでいるのは、私たちが、イエス様を見いだし、イエス様に献身したからではありません。その逆で、イエス様が私たちを見いだし、私たちを任命してくださったからである、というのです。この霊的な真理も、私たちの常識とは異なります。実際、私たちが信仰を失わないで済むのは、私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様が私たちを選んでくださったという事実と確信によるのです。私たちの選びには時として失敗もあります。しかし、全能者であるイエス様の選びには失敗はありません。だからこそ、私たちは弟子として生きているのです。ですから、私たちは、イエス様のみこころにそって、弟子として互いに愛し合う生き方が求められています。一方、この世は、私たちを憎みます。それはこの世がイエス様を憎んだことからもわかります。理由なしに、憎まれるのです。そのことを最初から覚悟する必要があります。クリスチャンとは、ギリシャ語の「キリストに属する者」という語源をもっています。キリストに属するがゆえに、この世は私たちを憎むのです。それゆえに、父なる神は私たちのために、私たちの助け主として真理の御霊を送ってくださるのです。そして、いま、それは成就しています。わたしたちは、聖霊の宮であり、聖霊は私たちの内に住まわれておられるのです。たとえ殉教の世になっても、真理の御霊が私たちを守り、支えてくださいます。そして、平安を与え下さいます。

清宣教師