8章全体を貫いているのは、キリスト者の自由の宣言です。4つの部分から構成されています。まず、1節-11節です。「今は」とは、イエス・キリストを信じた「今」という意味です。キリスト者は、「罪と死の原理」から解放されたからです。それはキリストによってもたらされた「いのちの御霊の原理」によるからです。「肉」の中にあった私たちは無力でした。肉がもたらすものは、「死」以外のなにものでもありませんでした。肉としての人間は、本質的に神に背いていており、神に喜ばれることは何一つなしえないのです。一方、御霊によってキリストと結びつけられている人間は、肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。それゆえに、キリスト者は永遠のいのちを持つのです。10節の「からだ」とは、「罪のからだ」(6章6節)、「死のからだ」(7章24節)のことを意味しています。今、私たちが生きているのは、キリストの内住の御霊によるのです。また、キリストが私たちに代わって獲得してくださった「義のゆえに」生きているのです。11節では、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」と呼ばれています。つまり、わたしたちが御霊の内住を持つことは、いのちがすでに私たちの内にあることを示しており、終末におけるからだの復活が確実なものであることを示しています。次に、12節―17節です。キリスト者がこの世で生きるとは、肉の誘惑にさらされていることを意味しています。それで、肉(からだ)の行いを殺すことが求められます。この誘惑との戦いも、御霊による戦いであって、人間の力によるものではありません。「御霊によってからだの行いを殺す」という表現は言い換えれば、「御霊に導かれる歩み」です。神の家族に加えられることは、暴虐な主人の支配下で恐怖に震えるようなものではありません。私たちは御霊によって「アバ。父よ」と呼びます。「アバ」とはアラム語で、幼児が「とうちゃん」と呼ぶ表現です。私たちが天の父に祈るとき、御霊が同時に、私たちが神のこどもであることを証してくださるのです。一方、神のこどもとしての身分を与えらたことは、同時に、「相続人」としての法的な権利が与えられたことを意味しています。私たちは、キリストとの共同相続人として、キリストの統治に共にあずかるものとなるのです。ところでキリストご自身は、十字架の苦難を通して、栄光の座に着座されました。それは、私たちもキリストと共に苦難を受けることを意味しています。次は、18節―30節です。「将来、私たちに啓示されようとしている栄光」とは、キリストの再臨の時に実現する栄光のことであり、19節~21節は、被造物の待望について記されています。「被造物」とは、ここでは人間以外の被造物のことです。被造物世界が「虚無」に服したのは、被造物の責任ではなく、それを統治していた人間(アダムとエバ)の堕落によるものでした。それで、神の子らが完全に贖われるときには、すべての被造物(全宇宙とその中のすべてのもの)も滅びの束縛から贖われて、最初の創造の時に与えられていた栄光と力を享受するようになるのです。23節~25節では、キリスト者が「呻く」ほどに待望していたのは、「子にしていただくこと」でした。ここではさらに、キリスト者が御霊をもっていることは、贖いの完成の初穂をいただいている、つまり、贖いの手付金をいただいているという意味であると述べています。ですから、キリスト者はうめき、待ち望んでいるのです。25節には「忍耐もって熱心に待ち望みます」と記されています。これはキリスト者の希望を表しています。26節、27節では、聖霊の執り成しのわざについて記しています。御霊ご自身が私たちの内において、言いようもない深い呻きをもって執り成してくださっているのです。28節は、「私たちは知っています」と記されており、キリスト者は、このことを経験として知っているのです。主なる神は、キリスト者のためにはすべてのことを働かせて益とされるのです。弱さも、失敗も、罪も、すべて神が益に導かれるのです。次は、31節―39節です。神が私たちの味方であることは、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」(32節)ことから明らかです。35節、36節では、キリストの愛を前面に押し出し、「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」というものが、パウロ自身の体験から、それらは私たちをキリストから引き離すものではなく、キリストの受難を覚え、キリストの十字架の苦しみに共にあずかるというキリストとの結合を確認するものとなる、と語っています。37節では、私たちを愛してくださった方、キリストの十字架は、敗北ではなく、圧倒的な勝利者のしるしです。私たちも、キリストの苦難にあずかることにより、圧倒的な勝利者となるのです。キリスト者を苦しめ、その支配下に置こうとする暗闇の支配者、もろもろの霊の支配下にあっても、御子キリストのもとでは、それらは私たちを神の愛から引き離すことはできないのです。

清宣教師