1節~6節は、キリストの模範です。14章の流れを汲んで、パウロはキリストの模範に目を向けるように導いています。「私たち力のある者」という表現で、パウロは、「信仰の強い人」とよばれるグループの人たちを想定して、大事なことを提示しています。それは「力のある者は、力のない人たちの弱さを担う」という生き方です。自分中心の生き方ではなく、主にあって与えられている「力のある者」は、キリストの体の中で、「力のない人」たちの弱さを担うという生き方が求められています。それこそ、キリストが示された模範でした。また、旧約聖書全体は、「忍耐と励ましによる希望」を与えるために記されています。忍耐と励ましの神が、教会のすべての兄弟姉妹のうちに働いて、力のある者も、力のない者も、心を一つにして、主を賛美し、主を礼拝するものとなるように、祈り願い求めています。7節~13節は、「互いに受け入れる」という1節~6節の流れにそって、今度は、「ユダヤ人クリスチャン」と「異邦人クリスチャン」がお互いに、神の民の一員として受け入れあうように勧めています。割礼のあるユダヤ人だけでなく、無割礼の異邦人も、唯一の創造主である神をほめたたえる者として、主によって召されました。最後の14節~33節は、ローマ人への手紙の結びとなっています。

さて、13節において、使徒パウロは、「望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みに溢れさせてくださるように。」と記していますが、私たちが、生きているのは望みがあるからです。もしすべての望みが完全に断たれてしまったなら生きていくのは難しいです。死を願うようになります。私たちが、母の胎内で、いのちをうけた瞬間、神様の御計画が実現に向かって動き出しました。まさに人ぞれぞれ、千差万別の人生です。誰一人、同じ人生を送る人はいません。それぞれの人生です。他人の人生と自分の人生を比較することは意味がありません。神の御計画は、人それぞれで、みな違うのですから。しかし、共通していることがあります。それは、みな神の作品であり、誰一人、神の作品でないものはいないということです。また、神に愛されている存在です。だれひとり神に愛されていないものはいません。そして、時至って、私たちはイエス様の十字架のもとに招かれました。そこで、イエス・キリストを見上げて、不変の愛、無限大の愛、真実の愛を見出しました。私たちの人生を委ねることができる唯一の救い主を見出しました。主イエス様は、すべての罪と苦悩と呪いを背負って十字架につけられました。それは私たちを絶望から救い出し、つねに、望みを与えるためでした。主よ。キリスト・イエスにある信仰によって、私たちの魂を喜びと平和によって満たしてください。きょう、聖霊の力によって、私たち一人一人を望みに溢れさせてください。

清宣教師