次に、詩篇110篇4節を引用して、さらに、解釈を展開していきます。7章17節~24節で、次のように述べています。「この方については、こうあかしされています。『あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。』(詩篇110篇4節) 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、―律法は何事も全うしなかったのです―他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。―彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」― そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。」詩篇を引用して、メルキゼデクの位に等しい祭司職というものがあり、イエス・キリストは、このメルキゼデクに等しい祭司として立てられたのだと述べます。イエスは、死というものを打ち破り、永遠の祭司として立てられたのです。ですから、次のように言うことが出来ます。7章25節~28節です。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。」レビ系の祭司職の場合は、自分自身が罪人であるため、いつも、まず、自分の罪のためのいけにえをささげてから祭司としての働きをしました。しかし、聖なる神の御子であるイエスの場合は、罪の清めが必要ではないので、ただ、一度の贖罪により、全人類の贖罪をまっとうされたのです。だからこそ、イエスは、十字架の上で、最後に、大声で「ことは成就した」と宣言されたのです。贖罪は、まっとうされたのです。そして、律法による犠牲制度の象徴である神殿の仕切りの幕が、上から下まで真っ二つに裂けたのです。つまり、キリストの贖罪により、神と人類との隔ての仕切りは完全に取り払われたのです。キリストはいつも生きていて、父なる神の御座の右におられて、すべての民のために、取り成しをして下さっているのです。ハレルヤ。完。

清宣教師