昨日の1章8節~10節は、2章に続く大事な個所です。そこには、私たちが神の前に絶対にとってはならない態度が記されています。それは「私には罪がない!」という態度です。すべて、「あいつが悪い」、「あの人が悪い」と言って、自分をいつも被害者の立場において、自分の罪を認めない態度です。その正反対に、自分の罪を言い表すこと、原語では「同じことを言う」という意味ですが、言い訳しないで素直に自分の過ちを認めるなら、神は真実な方ですから、私たちの罪を赦してくださる、と約束されています。2章は、ヨハネが愛をもって「私の子どもたちよ」という呼びかけで始まっています。そして、まず、「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」と述べています。神様は私たちが罪を犯さないことを願っておられます。しかし、私たちは罪を犯してしまう存在です。そして、私たちはうなだれてしまいます。時に、サタンがやってきては父なる神の前で私たちの罪を訴えます。私たちを叩きのめすチャンスをうかがっています。しかし、ヨハネは、私たちには弁護者であるキリストが父なる神の御前で取り成してくださいます、と述べています。私たちには、なだめの供え物となられた、つまり、ご自分の身を私たちのための罪のいけにえとして捧げられたキリストがおられるのです(2節)。ヨハネは、私たちが神の命令を守り、光のうちを歩むように勧めています。それは新しい命令であると同時に、創世の最初からあった命令でもあります。その命令とは、具体的には「互いに愛し合う」ことである、と述べています(4章13節、21節)。反対に、兄弟姉妹を憎むものは、光の中ではなく、闇の中を歩いているのだ、という事実を指摘しています。自分では神を愛し、光のうちを歩んでいると思っても、もし兄弟姉妹を愛することが出来ずに、憎しみの中にあるなら、それは錯覚であり、まだ闇の中を歩いているのだ、と指摘しているのです。さらに「私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです」と述べています。ヨハネは、強調しています。あなたの罪はすでに赦されています。そこが私たちクリスチャンの出発点です。だから、世を愛してはならない、と忠告しています。なぜなら、「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」。神を愛する生き方と世を愛する生き方は決して両立するものではありません。さて、「今は終わりの時です」と述べて、反キリストの到来について警告しています。新約聖書では、「終わりの時」とは、ふたつの意味で用いられています。ひとつは、キリストの降誕から再臨までの期間です。ふたつは、その中でもとくに、キリストの再臨が近い時期をさしています。反キリストの出現は、キリストの再臨の近いことを表すひとつのしるしです。そして、今や多くの反キリストが現れている、とヨハネは指摘しています。その中で、反キリストにまどわされないために、正しい信仰告白にとどまることを勧めています。そして、ヨハネは、イエス・キリストこそ、まことの神の御子であり、御子と御父を否定する者たちはみな、反キリストであり、偽物であることを強調しています。当時、そのような異端が実際に教会を脅かしていました。グノーシス派と呼ばれる異端などです。そして、ヨハネは、初めの福音にとどまること、御子および御父のうちにとどまることを強調しています。そうするなら、永遠のいのちの約束を、サタンに奪われることがないのです。イエス様が命じられたように、まことのぶどうの木であるイエス様に、しっかりと留まることです。そうすれば、再臨の主キリストの御前に大胆に立つことが出来るのです。

清宣教師