マナセ族のツェロフハデの氏族は、男子の相続人がいないので、娘が相続することになりました(民数記27章1節~11節)。そこで、ひとつの問題が生じました。マナセの部族のかしらたちが、モーセのもとに来てその問題を訴えました。その問題というのは、もし彼女たちが、他の部族の男性に嫁ぐなら、その相続地が、他の部族のものになってしまうのではないかということでした。モーセが主の指示を仰いだところ、ツェロフハデの娘たちの場合、同族のマナセ族の男性に嫁ぐようにとの指示がありました。この措置によって、相続地が他の部族に移される恐れはなくなりました。
このことは、その後のイスラエルの民にとって、娘が父親の土地を相続する場合の原則となりました。「イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない。イスラエル人が、おのおのその父祖の相続地を受け継ぐためである。こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族はおのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。」(36章8節、9節)。そして、ツェロフハデの娘たちは、主の指示のとおりにしたので、問題は解決されました。きょうの36章で民数記も終了です。締めくくりのことばは、「これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである」と記されています。そして、モーセによる勧告は、申命記へとバトンタッチされます。申命記1章5節に次のように記されています。「ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。」
エジプトを脱出したイスラエルの民たちは、40年の歳月を経て、ようやく、約束の地を目前にして、相続地についての説明を受け、相続地では何をなすべきか、もう一度、学びなおす機会が与えられました。私たちクリスチャンも、約束の御国を目指しています。この地上では、私たちは、旅人であり、寄留者です。この地上での使命をもう一度、確認しましょう。それぞれ、生まれた場所、生まれた日時、両親、兄弟、みな違います。しかし、共通していることがあります。それは創造主によって、人生のスタートを与えられたことです。あなたは高価で尊い神の作品としてスタートしました。あとは自分自身の選択です。御霊に満たされたクリスチャンは、涙の谷をも泉の湧くところとする人です。肉のクリスチャンは、環境に支配され、不平不満をつぶやく者です。しかし、私たちは御霊に満たされたクリスチャンとして生きることが求められています。
この時代が真に求めているものも、御霊に満たされたクリスチャンです。世の人は、肉のクリスチャンには飽き飽きしているのです。天の御父が求められているのは、父のみこころを行う御霊に満たされたクリスチャンです。民数記の中で、何度も、何度も、肉のクリスチャンが生きる姿を見せつけられてきました。生まれつきのものではなく、神の民として、神の子として、新しく生まれ変わらなければならないということを、繰り返し、教えられました。
主よ、生まれつきの自己中心の生き方ではなく、御霊によって新しくされた生き方を選ばせてください。お互いに真の成長を目指して祈り合いましょう。
清宣教師