きょうから、申命記です。「申命記(しんめいき)」とは、繰り返して話すこと、という意味のようです。「2度目の律法」と解釈することも出来るようです。
これらの神のことばが語られたのは、3節に記されていますが、エジプトを脱出して、第40年目の第11月の第1日のことでした。実は、ホレブの山からカデシュ・バルネアまでは、2節に記されていますが、ほんの11日の道のりでした。ところが、イスラエルの民の不信仰のゆえに、神様からの裁きとして、荒野を40年も放浪しなければなりませんでした。それは、単なる浪費というのではなく、イスラエルの次世代の人たちを訓練するという神のご計画でもあったのです。第1世代の不信仰の民の世代の者たちは、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブの二人だけを残して、この荒野で死に果てました。そして、ヨシュアとカレブの二人に加えて、次世代の者たちだけが、神の約束の地カナンに入るのです。それが実現するのは、第41年の第1月の10日です(ヨシュア記4章19節参照)。いま、モーセが語っているのは、第40年の第11月の1日です(1章3節)。ですから、あと2か月と10日で、約束の地に入るという時期に語られていることが分ります。モーセは、指導者としての最後の務めとして、神のことばを再び、繰り返してイスラエルの民たちに語るのでした。いわば、この申命記は、約束の地に入ろうとしているイスラエルの民のために語ったモーセの遺言ともいえるものでした。この時の状況が、1章5節~8節に、記されています。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ」。いま、イスラエルの民は、「向きを変えて出発する」ときが来たのです。今まで、40年間、目的地を知りながら、そこに入ることをせず、ぐるぐる、荒野を堂々めぐりしていたのです。しかし、いまは、向きを変えて、しっかりと目的に向かって出発する時が来たのです。そのために、もう一度、主のことばを復習して、最後の準備をするのです。民数記では、約束の地を目指して荒野を旅するイスラエルの民の現実が記されていました。この申命記では、約束の地での新しい生活を見越して、今一度、神のことばが語られるのです。申命記の主題は「回顧」と「展望」であるといわれています。まさに、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の最後の書として、出エジプト記の歴史を回顧し、カナンの約束の地での新しい生活を展望するものであり、次のヨシュア記以降の歴史書に橋渡しする重要な役割を果たすものとなっています。9節~18節では、民たちが増え、指導者たちが立てられた経緯を記しています。19節~28節では、カデシュ・バルネアでの民たちの不従順と反逆について記しています。29節~40節では、それまで、イスラエルの民のために、神が尽くしてくださった主の真実を思い起こすように諭しています。「荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ・・・」。それにもかかわらず、イスラエルの民は逆らったので、神の裁きを受けることになりました。41節~46節では、こうして、その後の38年間の荒野での放浪生活がはじまったのでした(2章1節参照)。私たちも、過去の事をしっかりと回顧する時、私たちの不信仰や不従順をみます。しかし、一方で、主の恵みと真実をも見ることが出来ます。ところで、過去の信仰の先輩たちは「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ」という申命記のみことばに示されて、向きを変えて出発しました。私たちも、もし、ぐるぐる同じところを堂々めぐりしている信仰生活を続けていると感じているなら、今日こそ、向きを変えて出発するときではないでしょうか。古い衣を脱ぎ捨てて、新しい衣を着て、成長する時です。肉の生き方を捨てて、御霊に満たされ続ける新しい人生です。出発しましょう。清宣教師