36章では、いよいよ、南ユダ王国の滅亡の時がきます。エホアハズ王(3カ月の治世)、エホヤキム王(11年間の治世)、エホヤキン王(3カ月と10日の治世)、ゼデキヤ王(11年間の治世)へと引き継がれましたが、歴代の王は、主のことばに従うことをせずに、主の目の前に悪を行いました。そして、ついに、主の前にへりくだることをしなかった南ユダ王国は、バビロン軍の攻撃を受け、エルサレムの住民は虐殺され、神の宮も、王宮も、すべての家々も、ことごとく焼かれ、城壁も破壊され、エルサレムの町は完全に廃墟となってしまいました。歴代誌の著者は、エレミヤの預言を引用し、70年間のバビロン捕囚は、約束の地であるカナンの地に、安息をもたらすためである、と記しています。つまり、これまでの偶像礼拝や暴虐に満ちてしまった約束の土地を、いったん、更地にして、建てなおすための準備期間のようなものであったと思われます。あるいは、もともと約束の土地は、7年間に1度、安息の年を守るようにと、律法により命じられていましたが、イスラエルの民はそれを守らなかったので、ここで、そのすべての精算を求められたのかも知れません。
さて、歴代誌第2の書を終えるにあたり、著者は、エレミヤによる70年後の回復の預言を思い起こさせ、70年後、主のことばのとおりに、ペルシャ帝国のクロス王が勅令を出し、エルサレムの回復の一歩が始まったことを記しています(36章21節~23節)。繰り返しになりますが、歴代誌が記された当時の状況は、70年間のバビロン捕囚から約束の地へ帰還して、神殿を再建し、エルサレムの城壁を修復したものの、前途多難の中で、落胆の沼に陥っている時代でした。つまり、この歴代誌の終わりの部分こそ、彼らにとって最も身近な記憶であり、あらためて、主なる神のご計画の確かさを覚えて生きるように、との主のみこころが示されているように思われます。ローマ人への手紙5章2節~5節のみことばを思い起こさせてくれます。「キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません」。
清宣教師