今日の11章は、ツォファルの語りかけから始まります(1節)。2節~6節において、ツォファルは、ヨブは弁舌巧みなだけで、「言葉数が多く」、「舌の人」であり、「おしゃべり」であると批判しています。それで、ヨブに対しては神様が直接的に語りかけて下さるほかに解決はない(5節)と言います。しかし、もし神が語られるなら、こんなことではすまされない。神は、これでも、あなたの罪を忘れて下さっているのだ(6節)と主張しました。7節~12節において、ツォファルは、全能者の知恵と力を人間は十分に理解することが出来ない、と言い、一方で、神は不真実な者どもを知っておられ、神はその悪意を知っておられる、それゆえ、ヨブの悪意をも知っておられるのだと暗示しているようです。つまり、ヨブがどんなに抗弁しようと、それは偽りであり、神はヨブのように自分の罪を認めない、不真実な者どもを裁かれるのだ、と主張しています。13節~20節において、ツォファルは、ヨブに対して知恵を授けようとしています。そして、ヨブが罪を悔い改めて、自分の悪を除き、神に救いを求めるようにと勧めています。そうするなら、ヨブの苦しみは取り去られて、繁栄が回復されると主張します。もしも、それを拒否するなら、ヨブも悪者どものように望みはない(20節)と釘を刺しています。ヨブの友達の目から見れば、ヨブの苦しみは罪の結果であるに違いなく、ヨブがそのことを認めないので、解決がないものと判断しています。ヨブのあまりにもひどい境遇が、ともだちをしてヨブはとんでもない罪を犯しているに違いないという確信に立たせているようです。ですから、ヨブは誰も自分の言い分を聞いてくれるものはいないと思うのです。ただ、一筋の希望があるとすれば、神との間に入る「仲裁者」(9章33節参照)しかいない、という心境と思われます。そこで、明日の12章で、ヨブがツォファルに答えることになります。
今日の箇所から教えられることは、私たちも、ツォファルのように、色眼鏡をかけて他人を見てしまう危険性があるということです。とくに、教会の親しい兄弟姉妹から、その人のことについて悪いうわさを聞いたりしてしまうと、あたかも色眼鏡をかけているかのように、その人の行動がみな、悪いものに見えてくるのです。私たちの心の目が、いつも澄んでおり、真実を見ることが出来ますように。聖霊様の目薬をいただきましょう。清宣教師