24章では、自分には理解できないことが自分を苦しめていると考えるヨブにとって、いくつかの問題をあげています。全能なる神は、悪人たちを必ず裁かれる日をさだめておられるのに、神を知るものたちが、その日の裁きを見ることが出来ないのだろうか、つまり、神を知る者たちの目から見れば、当然、神の刑罰をうけなければならない人たちが、なぜ裁かれないのか(1節)という疑問です。そして、具体的にその実例をあげていきます。第1に、社会的に弱い立場にあるものが虐げられていることです。みなしご、やもめ、貧しい者、弱い者が虐げられ、貧困の限りの生活を強いられている現実(2節~11節)、本来、主なる神は、みなしごの父、やもめの裁き人(詩篇68篇5節)である方なのに、みなしごややもめの叫びが聞き届けられていない現実(12節)、そして、殺人、姦淫、盗みの罪が横行している現実(14節~17節)、21節で、悪人が弱い者たちを虐げている現実があり、しかも、神は悪人たちを支えておられるようにさえ見える現実(22節~23節)がある。しかし、悪人たちは必ず報いを受けるのも現実である(24節~25節)とヨブは主張しました。
今日の聖書箇所から教えられることは、この世界で起きていることを、ヨブの友人たちのように因果応報の原理で理解しようとするなら、そこには無理があること、神には神のお考えがあり、死後の世界をも含めて考えなければ矛盾は解決しないこと、そのふたつのことを、ヨブは語っているのです。私たちの狭い価値観や世界観で、判断するのではなく、生ける神の無限の叡智、神の測り知れない愛の広さ、深さ、高さの中でなされることに、信頼する以外にないのです。
清宣教師