3章は異端に対する警告です。ここで取り扱っている異端は、コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙でも、取り上げましたが、救いの条件の中に行いをもちこむ(例えば割礼など)律法主義者たちのことです。きょうの3章でも、「私たちの国籍は天にあります」(3章20節)と述べて、天国の市民権をもつ者として生きるように勧めています。そして、その市民権は行い(律法を守ること)ではなく、「キリストを信じる信仰による義」によって得られたものでした(9節)。もし、人間の行いによって得られるなら、キリストの十字架の死は無意味なものとなります。パウロには多くの業績、律法による立派な生活をしてきたという誇りがありました(4節~6節)。しかし、それは、ことごとく、神の前には、誇れるものではなく、反対に忌み嫌われるものとなったのです。人間の誇りは神の前にはことごとく忌み嫌われます。ただ、キリストの十字架を誇るものだけが尊ばれます。キリストの義だけが純粋で完全です。人間の義は不完全で汚れております。ですから、パウロが誇りにしていた律法主義者としての業績もみな、今では、損と思うようになったのです(7節)。今では、ただ、神様から与えられている自分自身の使命、神に定められている人生のコースを走りぬくことだけです。イエスキリストを信じて、信仰のスタートラインに立ち、すでに、走り出しました。あとは、ゴールまで完走することだけです。『うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです』(13節、14節)。努力をして、立派な行いをして救いを得ようとするのは、キリストの十字架に敵対する歩みです(18節)。最後は滅びです。なぜなら彼らの栄誉は地上のもの、彼ら自身の栄光を求めているにすぎないからです(19節)。私たちの人生観、価値観、世界観の土台は、『私たちの国籍は天にあります』というものです。私たちはすでに天の国籍、天国の市民権をもつ者としての視点から生活することが求められています。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあります。もし、あなたが地上に宝を積むなら、あのロトの妻のように後ろを振り返り、塩の柱となって滅びます。この地上に未練を残すなら、後ろを振り返ってしまうものとなります。しかし、私たちは天国の市民です。天の御国に宝を積む生活をするのです。そうすれば、この地上に未練を残すことなく、うしろのものを忘れることが出来ます。天の御国を慕い求めることが出来ます。この地上では、弱く、貧しく、苦しみがあっても、やがて、キリストは、「私たちのいやしいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えて下さるのです。」私たちのキリスト者としての生活は、天の御国に入る準備の人生です。たとえ、いま、小学生であっても、未婚であっても、子育て中でも、仕事人間であっても、みな、天国を目指して生きる天国の市民権をもつものとしての生活をすることが大事です。16節に、「私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」と勧められています。あとは、ゴールを目指して完走するだけです。天の御国にあなたの栄冠が用意されています。
神はみこころに従い、からだの中にそれぞれの器官を備えて下さいました!