「私の喜び。冠よ。」と呼びかけています。牧師にとって教会の兄弟姉妹は喜びであり冠です」。みんな一致している時、その冠は輝き、牧師の心も喜びで満たされます。皆様もこどもたちが一致しているなら輝く冠をかぶっているように感じられるでしょう。でも、不一致なら、なんと重苦しいことでしょう。教会の神の家族も同じですね。一致はみなが主にあって、お互いを自分よりすぐれていると思い尊敬する時にのみ成就します。2節と3節で、ユウオデヤとスントケに一致するように勧めています。4節からは、いつも主にあって喜ぶように勧めています。私たちが喜ぶのはどういう時でしょうか?思いがけずに自分の欲しいものをプレゼントされた時?、高価なものを安く手に入れた時?人から親切にされた時?確かにそうですが、ここで、『いつも喜んでいなさい』と記したパウロの意味は違うと思います。かつて、パウロがピリピの地を訪れたとき、パウロは官憲によってムチ打たれ、背中が裂けて血が流れている状態で、光のない地下牢に、両足を鎖で固定されました。熱と傷の痛みで眠れない真夜中、シラスと二人で神を賛美しました。その賛美は牢獄に流れました。『いつも喜んでいなさい』とは、いつも、ということです。感謝な状況のゆえに感謝するのではなく、どんな状況であっても感謝するという生き方です。さて、その土台は、次のような生き方です。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(6節、7節)。マルタとマリヤの家を、イエス様が訪問された時のことでした。マルタはもてなしのために、心がいっぱいになりました。そして、文句を言ってしまいました。イエス様は、それに対して、あなたは多くのことに煩わされているけれども、本当に必要なのはただ一つです、と諭されました。何かに心を奪われると、つい、私たちは、イライラして不平や文句を言ってしまうものです。でも、本当に大事なことは、唯一つです。全能なる救い主、イエス様に心をむけること、目を離さないことです。
私たちクリスチャンは、初心に立ち返って、すべてを学ぶ姿勢が必要です。8節と9節です。
柔道の創始者である加納治五郎は、最高の段位、10段であり、黒帯でした。しかし、遺言では、自分の遺体は、黒帯ではなく、白帯を締めて欲しいと言ったそうです。白帯とは、初段にもなれない、柔道を始めたばかりの初心者を示す帯の色です。でも、加納治五郎は、いつも、初心者のように学び続ける姿勢を貫いた人でした。私たちクリスチャンも、学ぶこと、真摯に、学び続けること、謙遜に学ぶ姿勢が大事です。最後に、パウロは、自分は、どんな境遇にあっても満ち足りる秘訣を学んだと記しています(13節)。私たちのために、最高の秘訣を教えて下さったパウロに感謝します。
神はみこころに従い、からだの中にそれぞれの器官を備えて下さいました!